22、岐路2

 朝日が窓を透かし、仄暗い室内に光を当ててくれた。しかし、いつもなら光に満ちるこの宅邸は、今や雲に覆われ、かすかの絶望と共に、まるで人気のない、空っぽの屋敷のように感じる。

 あれから、何度もルシフェルはドゥランナーを休ませようとしたが、彼女は執拗に彼のそばに居続けた、二、三回ほぼ同じ会話を交わすと、彼もこの小さきお供を認めたか、何も言わずに朝を待った。

 時計の針が9時を指そうとしたその時、外から人の声がした、よく聞こえなかったが、短い会話の中に機械の音が混じっていた。

 そんな会話の後、すぐに扉が開けられた。

 見慣れた薄緑の姿が息を切らして入ってきた。

「ラファエル様…」

 心配と疲労で元気がないのか、ドゥランナーの声が、力が籠ってないように聞こえる。

 彼は呼吸を整えながら、部屋の中を確認した、そして険しい顔で扉を閉め、音を隔てる魔術を施すと、ルシフェルを見た。

「ルシフェル…何があったのですか?なぜ…」

 口にするのが憚れるように、彼は一旦口を閉じた。

「なぜ…あなたが死刑を処されるのですか?」

 死刑?

 ドゥランナーがそれを聞くと、途端に混乱し始めた。

 ルシフェルが、死刑を、処される?

 まるで昔に聞いた、母親の処刑命令のように、彼女は果てしない恐怖と、理解できない気持ちでいっぱいになった。

 何を言うべきか、何をするべきなのか、考えても考えても、空白の脳裏に何かが浮かぶことはなかった。

 彼女は死んだような目でルシフェルを見た。

 ルシフェルは顔を顰めて、そんな彼女が見ていられないのもあるが、話すべきか?いかに話すべきか?昨日から彼の中でその疑問がぐるぐると回っていた。

 ラファエルは机の隣の椅子を持ってきて、ルシフェルの正面に座った。

「我が友よ、教えてください、一体、どういうことですか?」

 彼も悲痛の表情を浮かべ、手を伸ばし、ルシフェルの力なく膝に置いた手を掴んだ。

 大事な友と、家族とも言える者たちに、そんな顔をさせたくなかったのか、ついに、彼は決心したかのように、重たい頭を上げて、口を開けた。

 彼が昨日、神殿に行ったのは他ならない、主人たる神を、諌めるためだった。

 彼がバアルゼブルに依頼した研究は、一段階の仕事を終えて、次の段階までまだ時間がある、彼らはすでに、人間という生き物の生活に詳しく、それらが地上に築いた文明と、その文明に伴うすべてを、理解した、つもりだった。

 しかし、一つだけ心残りがある。

 人界はあまりにも危険が過ぎる。

 野獣が跋扈する、災禍が頻発する、様々な危険が彼ら人類を襲う。そのすべてが、その人間たちの生活を脅かすものとなる。

 はるか昔に、人類が人界に出て、彼らのある行動に、天帝は怒りを覚え、一度、彼らを滅ぼそうとした。ルシフェルは臣下として、全力でそれを阻止した結果、小さき奇跡の元に、今の彼らが生きている。

 その時から、ルシフェルは思っていた、天帝が彼らに対する、その悪意とも言える感情は間違っている、と。

 天使も人間も、神の傑作であり、同様な待遇を受けなければならない、神には、自分たちだけでなく、人たちの発展や進歩を導く義務と、災難から彼らを守る必要があると、彼は考えている。

 だからこそ、神に意味のある意見をするために、彼は数千年を費やして、バアルゼブルと、他にも何人かの研究者に頼み、人間を研究させた。そしてその補充をベリアルに依頼し、得られた成果を整理し、ひとまず、結論を出した。

 人に価値がある証拠、神の庇護を必要とする証明。

 そのため、彼は決心して、昨日神殿に向かった。

 天帝、神と話し合うために。

 しかし、その言葉に、神は首を縦に振らなかった。逆に、彼を捉えるようにと周りの兵士に命令した。

 自分に意見したことを、『謀反の罪』として。

 神殿の兵士は一般人ではない、どちらと言うと、機械に似たようなものであり、神の意向と共にあるもの。彼らが命令を受け取ると、何も反論はせず、そのまま槍の刃の部分を彼の首に当て、地面に押さえ込んだ。

 彼はそれに驚いたが、反抗はしなかった。

 だが、神の次の言葉に、彼は衝撃を受けた。

「ルシフェルを、謀反罪で処刑する」

 ここまで聞けば、ルシフェルだけではなく、ラファエルとドゥランナーも驚きを禁じ得なかった。

 天界にいる者の中、どれほどの人が、それを認めることができるのかすら、考えられない。

 他人を思い、同胞を思う、いっそ他人のために生きている天使長が、その公平さゆえ、人類を愛する心がゆえに、処刑される。

 しかも問われる罪は『謀反』。

「いいえ、これはきっと、何かの誤解です、私が…」

 ラファエルは受け入れられない様子で立ち上がったが、ルシフェルに腕を引かれた。

 彼ははっきりと首を振った。

「だめだ。きみまで罪を問われたら、きみに合わせる顔がなくなる」

「しかし…!」

「こうなることは分かっていたさ、薄々にね」

 ルシフェルは苦い表情で笑い、彼を見上げた。

「サタンに、連絡してくれないか」

 僕はもう外に行けないからね。

 と、彼は儚く微笑む。

 ラファエルはその手を取ると、急ぐように言った。

「ほかに、ほかに誰かいませんか?」

 ルシフェルはただ、軽く首を振ってみせた。

「あまり多くの者を巻き込みたくないな、サタンならば、兵を集めてくれるだろう」

 兵を集めると聞いて、二人はさらに驚く表情で彼を見た。

「ルシフェル、あなた…」

「ルシ…」

 ラファエルは段々理解が追いつかなくなった、ドゥランナーはただただ心配そうに彼を見つめる。

「ああ」

 彼は頷いた。

「罪名が謀反ならば、本当に謀反を起こしてみるよ」

「ならば私も」

 ラファエルはまた立ち上がった。

 しかしルシフェルはもう一度、だめだと言った。

「きみは、ここに残るべきだ、友よ…これは勝てない戦、きみは私と共に堕ちてはいけない」

 ルシフェルは眉間に皺を寄せて、惜しむような口ぶりで、目を閉じながらそう言った。

 彼の悲しむ顔を見て、ラファエルも悲しい気分に包まれたようだった、もう少し早く気づかなかった自分が憎い。しかし今となれば、そんな悔いも意味をなさない、だから、彼がそう言うのならば、そうするまで。

 なんせ、友の、最後の願いかもしれないと言うのに、断ることなどできない。

 長い静寂の後、彼はゆっくりと背を向けた。

「気を、つけて…ください」

 去りゆく親友に、何を言えばいいのか、ラファエルにはさっぱりだった、だからこのような言葉しか絞り出せなかった。彼は分かっているとも、堕ちる運命にある彼に気をつけてなど、不要な言葉にしかならないことを、しかしそういう言葉しかなかった、自分を慰めて、友を慰める、偽りまみれの言葉しか。

「…待ってくれ」

 そのまま行こうと彼が足を踏み出すその時、突然、沈黙したルシフェルが口を開けた。

「ドゥランナー、きみは彼について行ってくれ」

「ほぇ?」

「彼は天界で、最も信頼できる者、きみの面倒もきっと…」

 ルシフェルはラファエルの方向を見た、ラファエルもそれを認めるように頷いた、そのままドゥランナーを連れて行こうとした時。

「イヤだ!」

 ドゥランナーは伸ばしてきたラファエルの手を振り払って、立ち上がった。

「ドゥランナー…これは遊びじゃないぞ」

「わかっている…わかっているよ…でも、でも!」

 彼女の目には薄い水の膜ができていた、溢れ出す涙を袖で拭きながら、彼女はキッパリと宣言した。

「わたしは!ルシフェル様と一緒に行く!」

 ルシフェルも少し彼女の気持ちがわかってきた、それは冗談でも、事情の大きさを知らないわけではない、心からそう思っているのだと。

「ジゴクの底までも、わたしはルシフェル様のそばにいるの!」

「……」

 その言葉に、いよいよ開いた口が閉じられないようになったルシフェルは、少し呆然とした。

 元々は彼女により良い環境を提供したいだけだった、少なくとも一般人の生活を送れるようにと、自分に報いるなんて、これっぽっちも考えたことがなかったルシフェル。しかしドゥランナーはそうではなかった、勉強も弛まぬ努力も、全ての全てが、彼への報恩のためであった。

 そんな彼女が、ルシフェルを一人で行かせて、自分がここに残って何も心配しない生活を送るなんて、できるわけがない。

 ラファエルも相当驚いた。

 伝説の中、魔族というものは恩知らず、感謝を知らぬ冷たい生き物であると、しかしこの子は違った。

 これもある意味、大天使長の凄さだろう。

 そよ風のような天使は頷いた、そして踵を返して、この屋敷から去った。二度と、ここに来ることはない、と、思いながら。

 それはルシフェルも同じ。

 二度と会うことはないのだろう。

 二人は違う場所で、同じように思った。

 再びベッドに座ったドゥランナーは、ただぼうっと天井を見つめた。

 ルシフェルは窓の外を見つめている、その姿を目に写すと、自分にできることはまだあるのか?と考えざるを得なかった無力な少女。

 同じように視線を窓に移すと、彼女は静かに思った。

『結局、力になれなかった』と。

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