9、工房での生活

「バアルゼブル様、この試薬はなんですか?」

「ん?ああ、あれか、あれは人間が作ったという食事の成分から抽出したものだ」

 自分の実験道具であれば全て目新しい、と言ったような雰囲気を出すドゥランナーを横目に見て、バアルゼブルはコーヒーを片手に、次の授業の準備をしていた。流石にまだドゥランナーに出してはいけないが、研究で徹夜が日常の自分にとって、分析力を維持してくれるコーヒーは重宝だった。

「最近さらに進化を遂げたそうで、天界の食物との差異を図りたいのでね」

 この二日間という短い付き合いで、ドゥランナーは、そろそろ彼は何を研究しているのかを理解しようとしていた。

 彼の言い分によれば、今の研究、そこには小さな物語が隠されているだとか。毎日本に埋もれて、天文、地理、それか魔術などを研究して、引きこもりといった生活を続けていると、才を認めてくれる人はいたが、無意識にとる高圧な態度で、そもそも話を聞いてくれる人ですらあまりいなかった。そんな日々を送っていた彼の元を、天使長自らが訪ねた。

 ーー「我々は同じ被造物、ならば、お互い理解し合うべきではないかな」

 あの時のルシフェルは、今ドゥランナーが接触した彼とは何も変わっておらず、人や魔族にも、平等に接しようとする。

 だから、あれは人類が煉獄に放り出され、今の人界神に管理権が渡った頃、彼はバアルゼブルにそう言った。

 変わったやつだと思いながらも、研究課題としてそれを引き受けて、人間を研究するため、度々人界に降りていた。それから何百年が経ったのだろう、地上の人はバアルゼブルを神と称し、『高き館の主』として崇めるようになった。これは彼の数少ない、自慢できるものだった。

 最近になってから、彼の研究内容は人間の文明のみならず、飲食や牧畜まで手を伸ばした、研究の方法も、ただの観察や記録と違ってきている。

 しかしドゥランナーが彼のところに来てから、これらは俎上にすら上がっていない。

 人間はなぜ天使と違うものになっているのか。これはもともと、近頃の彼に課された課題ではあるが、「ルシフェルがきみをおれに託したとなれば、研究などいくらでも後回しにできる」と彼は主張する。

 そのため、彼は机に積んでいた資料の大半をダンボールにしまい、本棚から魔術や、雑学などに関する本を取り出した。しかし試薬、薬などはどかせることもできず、仕方なく、時間停滞の呪文をかけて、そのままにしていた。

 それで前述のような会話を、毎日のように交わしている。

 ドゥランナーにとって研究者、あるいは学者のようなものは未知にも等しい、彼らについて色々知りたいが、流石に人の家に邪魔しているのに、走り回るわけにもいかないので、とりあえず目の前にあるものを、片っ端から聞いてみた。

 そしてバアルゼブルといえば、彼は人の面倒を見るのに長けているわけでもなく、むしろ下手の方だが、自分の研究に興味を持つ者に、好感を抱くのは当然のように、彼もそれをよしとし、彼女に一から研究内容の全てを話した。

 まあ、それのせいで話題が逸れるのもしばしばあるが。

 しかし奇妙なことに、いくら話が脱線しても、授業の内容と時間は、最終的には計画内に収まることが多い、それもドゥランナーでも理解できるような内容で。講師としての才能があるとしかいえない。彼が今の研究員としての身分を捨てれば、七重天の高級学府で、天界に名を響き渡るような名教師になっていたかもしれない。

 ドゥランナーがここにいる時、何者の邪魔もなく、安心して勉強できる。バアルゼブルからの課題や、読まなければならない本があるわけだから、案外忙しい毎日を送っていた。

 とはいえ、バアルゼブルは他人の面倒を見る経験はない、それが子供であると尚更。というより、彼自身でも自覚しているように、そもそも自分の面倒すら、ちゃんと見ているとは言い難い。食べるときは大量にカロリーを取り込み、なんでも食べる、それで一週間とか長い時間のエネルギーを得て、その後は一切食べずに過ごす。睡眠についても、研究にふけて、3、4日寝ないことすら常のこと。なんせ観察も研究のうちだから、天界とは違う時間を過ごす人類が、自分が寝ているときに何か変化が起きたら確認できない、そんなことが起きるぐらいなら、研究員の称号を返す方がましだ。

 故に、手元に終わっていない報告があれば、食事でも睡眠でも、彼には無縁のことだ。

 このように彼は様々な言い訳をするが、流石にこんな生活は万人向けじゃないのは分かっている。そしてドゥランナーのような、100歳を超えたばかりの子供というと、天界では、まだまだ五重天で施設を見て回り、遊び倒し、学問には無縁な年頃。自分のような激しいスケジュールを組むのは、明らかに不可能だ。というか、十年で卒業する基礎学校を出て、自分のところに来て、魔法について勉強し始めるのは、どちらというと優等生を通り越して、天才にしか見ない道を歩んでいるとしかいえない。

 子供にとって、それはあまりにも険しい道だ。

 天使の寿命は少なくとも数十万年。だから、千歳以下の子供に属する者は、基本的には勉強や読書、そんな努力することとは無縁の生活を送る。バアルゼブルにはルシフェルの意図が読めない、しかし、仮に自分の学問が必要となれば、友として、自分にできることといえば、力になってあげるしかないだろう。

 しかし今の生活に徹夜する必要もなくなり、事前にエネルギーを蓄えることも同じ、だからといえばおかしいが、この子にどうやって食事させるのかは、問題だった。睡眠なら別に大した問題じゃない、二階の寝室を彼女に使わせ、自分は一階の来客用ソファさえあれば文句はないし。

 だが飲食のこととなれば、どうしようもなくなる、自分と同じようになんでも食えるわけでもないし、適当なものを食わせるわけにもいかない、それで夕方まで考え詰めても、別にいい案が浮かぶことはなく、白状した次第だった。自分は料理に長けたわけでもなければ、一食限りの料理を出すのはさらに不得手である、と。

 ドゥランナーがその言葉を聞くと、しばらく目をしばしばさせたが、白い歯を見せるように笑った。

「ふふっ、ルシもそうなんですけど、バアルゼブル様もそんな感じですね!仕事は完璧なのに、家事ができないのですね」

「あーー、えっと、そう笑ってくれるな…ルシフェルはともかく、おれはただの本の虫だ」

 ルシフェルのようなパーフェクトとも言える存在に、そのような欠点があるなんて、確かに気になることではあるが、生徒の笑い話にされるのは、流石に恥ずかしいことだ。バアルゼブルだって、そこまで神経が太いわけでもない、彼は少し死んだ目で空笑いしつつ頭を掻いた。しかしドゥランナーはそんなことをこれっぽっちも気にせず、自信満々の様子で胸元を叩いた。

「まーかせてください!バアルゼブル様!部屋の片付けでも、料理でも、多少はできますよ!」

 ドゥランナーにとって、これほど自分が誇らしいのは、まさに生まれて初めだろう。

 彼女の自信に満ちた様子を見ると、自分への失望と焦燥感にため息をつくバアルゼブルは頭上げた。不思議に思うところはあるが、この子も天使長の側に数年いた、流石に悪意で言ってる可能性は小さい、ならば面白がっているだけだろう。それに自分の面倒が見れない人ときたら、あの仕事ばっかりの天使長も五十歩百歩と言ったところだろ、だからこの子の面倒見が良くても、特に疑問に思わない。

 そこまで考えると、また別の意味でため息が漏れる、自分が心配した通り、ルシフェルは自分の面倒がきちんと見れない、知ってたけど、やはり心配だ。

 ため息つきながら、眉を顰める彼を見ると、自分を信じてくれないのかと思い、ドゥランナーはふくれっ面をして不満を伝えた。それで慌ててバアルゼブルは言い訳をする。

「大丈夫です!ルシにはたくさんの友人がいます、そんなに心配することはありません!」

 ダメとしてもわたしがいます。

 まだまだちびっ子だが、明らかにこの子はルシフェルの親気取りだ。

 こんな状況はほっこりするべきだろうか、なんせ、立派とした大人なのに、生活は子供に面倒を見られるというのは、なかなかに理解し難いが、ルシフェルの忙しさを考えれば、そこを務めていたベリアルが解放されただけ、とも言えるかもしれない。聞いたことではあるが、天使長の毎日は忙しく、休む時間すらない、それで書記官のベリアルが面倒を見ていると。

 逆にいうと、ベリアルのやつはいつ休むんだ?とバアルゼブルは疑問を思い浮かべた。

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