8、気高き主

 十分もしないうち、ルシフェルは扉を開けて、ゆらゆらと小さく手招きした。ドゥランナーは軽く裾を整えると早足でついて行った。

 七重天を横切るのは、とても長い道程であるが、階段を通り抜き、六重天に着くや否やの時、ルシフェルは彼女の頭を撫でて、もうすぐ着くと声をかけた。ドゥランナーはその距離に頭を傾げたが、理解する前に、六重天でも稀にしか見ない、豪奢で、巨大な宅邸の前に彼は足を止めた。

 それはほんとに階段のすぐそばにあった。

「あ…」

 ドゥランナーは思わず驚嘆の声を漏らすが、ルシフェルそんな彼女に軽く笑みを浮かべて、その手を引いて、力一杯でドアを叩いた。

 それでも全然反応がない扉に、ドゥランナーは心配そうな視線をよこすが、彼はため息混じりに笑うと、再びノックした。

「はいはい、聞こえてる!全く、誰が…」

 ものすこく遠いどころから人声が響き、その声は重々しく、冷たい印象を与え、絶対優しい人ではない。ドゥランナーはひっと悲鳴を上げて、震えながらルシフェルの背後に隠れた。

「ルシフェル…」

「おはよう、バアルゼブル。研究の邪魔をしてすまない」

 ぐちゃぐちゃに乱れた、寝癖がついたかのような、ボサボサとしたくせ毛の男性が、扉の隙間から現れた。彼は愚痴を垂れながら扉を開けたが、ルシフェルの姿が目に入ると、言葉が止まってしまった、それどころか、ため息すら少し漏れたと言ったところだった。敬称つけずにルシフェルに挨拶しても、ルシフェルはただ微笑みながら返事をしたところからも、少なくとも二人の仲の良さが窺える。

 青年はダークブラウンの短髪で、天界の雰囲気に似合わぬダークブルーの外套に、黒のシャツを身に纏っている、真っ白の制服を着たルシフェルとのコントラストが激しい。

 金色の瞳は鋭く、目がつり上がっていて、形は細長く。鳳眼、それかキツネ目とでも呼ぶべきか、とにかく、人によっては怖いイメージを与える。

 当然ながら、初対面のドゥランナーにとって、インパクトありすぎて、怖すぎると言った感じでルシフェルの背後から出てこない。

「何があったのか」

 青年はそれを大して気にせず、ただ頭を軽く掻きながら口を開けた。天使長が目の前にいるというのに、まるで尊敬するという意思がないように見える。手の動作は少し硬い。ルシフェルが全く見たこともない子供を連れてきたから、ここで話を済ますべきか、それとも中に迎え入れるべきかが分からなかったようだ。

「大したことはないよ、ただ、一つ頼みたいことがあるんだ」

「なんだ、研究内容の追加か、おれに文句はないが」

 青年の右手に少しの墨が染み込んでいる、外界の状況すら分からないほど何かを長時間書いていた、それは見ればわかる。そして天界で、七大天使や天使長、首席書記官以外、このようにペンだこすらできてしまうほど、書き物をする人といえば、研究会であるソサエティーに属する研究員たちしかいない。

 しかし残念ながら、今のドゥランナーにそれを視線に映す余裕がない。

 普段はたとえどんなに怖い人でも、それこそミカエルのような者でも、ルシフェルの前では慇懃に、礼儀正しく振る舞うようになる、怖い思いをする羽目になることはほとんどない。しかしこの人は、ただでさえ外見と声が怖いというのに、他の人のように、ルシフェルを崇める姿勢すら全くない。それがドゥランナーにとって、まるで銃弾を恐れない野獣のように、恐怖の塊でしかない。

「いや、研究内容の追加について、整理してから話そう」

 自分の腕をぎゅっと抱きついてるドゥランナーに、彼は仕方ないと苦笑いを浮かべた。

「この子の、指導役になってくれないか」

 突然のことで面食らった青年に、ルシフェルは説明する。七重天には上級の学府があるが、そこは才能と基礎両方を備えたものにのみ扉を開く。いくら自分の権限で、彼女に通わせることはできるとはいえ、魔術の基礎にも、深い学問にも触れることがなかった彼女にとって、そこでやっていけるとは思えない。だからこそ、青年に彼女の教師となって、指導してほしい。

 青年は相変わらず無茶をする、とため息をつきながら、ルシフェルの影に隠れるドゥランナーに目をやる。

 しかしその視線に、ドゥランナーはさらに恐怖を感じ、ルシフェルの袖を掴んだ。

「それはいいが…それほどおれを恐れていると、な」

 彼は呆れた様子で腕を組み、自分ではどうしようもないと言いたげに目を細めた。

「ふふっ、ドゥランナー、ほら…この人はわたしの知人で、ここに住む学者だ」

 ルシフェルはおかしそうに笑う、いまだに自分の袖から離さないドゥランナーの手を引いて、しゃがんだ。

 それでようやく、ドゥランナーは青年を見つめることを試みた。

「えっと、その…わ、わたしはドゥランナー・リスライトです、あ…」

 あまりの緊張で、本当の名前を言ってしまった。間違ったことに気がづいて、ドゥランナーは恐る恐ると、ルシフェルを見上げた。しかし彼はただ軽く笑みを零しながら、大丈夫だ、と優しい声で言った。

 しかし研究員というのは、人界に行く機会があっても、魔界に近寄ることなどほとんどなく、そもそも王室の名を知る機会がない、それがたった100年ほど前に、代替わりしたばかりの王の名前ときたら尚更。

 彼女の慌てる様子に青年は困惑し、首を傾げてルシフェルに解釈を求めた。

「彼女は魔界で拾った孤児だ」

 それで仕方なく説明すると。

「魔族、か…まあいい、人でも魔族でも、おれに偏見などはない」

 天界に敵とも言える魔族がいると、そう言われたのに、考える素振りもなく、青年は変わらず淡々とした冷たい声で返事をした。

 その言葉で安心したルシフェルは微笑む。

「だからこそ、君に任せるべきだと思った」

 振り返りドゥランナーの様子を見てみると、彼女はあいかわらず俯いて、何をいえばいいのかわからない、挙動不審な感じでいる。

「一週間だけここで勉強すれば、迎えに来るよ」

 軽く頭をぽんぽんと優しく叩いた、それでドゥランナーは顔を上げて、再び彼を見上げると。

 いつも通りの柔らかい表情。

 その既に日常の一部までになった笑顔で、詰めていた息が急に吐き出せるようになって、とてもリラックスとした気分になった。よしっと頷いて、彼女はついにルシフェルの影から一歩前に出て、深々と一礼した。

「よ、よろしくお願いします!バアルゼブル様!」

 態度の急変に戸惑いながらも、青年はできるだけ笑顔を見せるようにした。

 二人がちゃんと、向き合うことに頑張っているのを見て、ルシフェルは立ち上がり、また彼女の頭を撫でた。

「きっちり勉強してね。すぐ迎えに来るよ」

「はい!ルシフェ、あ、いいえ、ルシ!」

 その明るい笑顔のため、もはや自分がどれほど心を砕いてもいいような気がして、ルシフェルは安心しきった顔で、まるで自分の娘か妹を見るかのように、目を細めながら力なく微笑む、そしてまだ言ってないことがあるのに気づき、簡単に青年と話して、持っていたスーツケースを渡した。

 この人が、見た目はなんか怖そうだけど、とても気さくで、逆に実は話しやすいのでは?とまで思えるようなこの人が、いったい自分に何を教えるのか?それと、ルシフェル様の話によると、研究員たちの工房はすごいと言うけど、この人の工房はどんな感じなのか?

 ドゥランナーの頭の中で、このような疑問がぐるぐるとごちゃ混ぜになって好奇心を誘う。それらを考えるだけで精一杯だったので、彼らの会話は全く耳に入ってこなかった。話が終わり、ルシフェルが彼女に別れを告げるとようやく、彼女は自分がぼうっとしていたことに気づく。

「任せて、ルシ!絶っっ対頑張って力になりますから!」

 これほど長く付き合っていたルシフェルと別れて、青年の後に続き、彼女は天界でも屈指の、上級研究員にあてられた工房へと足を踏み入れた。

 これでついに、長いようで短いような、学問と対面する期間が始まった。

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