第4話 邂逅


 歩羽フワ――っと、ランジェは必要な荷物を受け取るとそのまま楼閣の二階から外へと飛び出した。


 先ほどの黒いケダモノのようなものが走り去ったほうへ、空を駆けるようにして


 すでに仙鬼に必要な勁力けいりょく――つまり「仙術・仙法」の基礎を習得している彼女にとっては何ほどのものでもない。


 空を駆け、星を渡り、夜を泳いで。彼女はすぐにそのケダモノの姿を視界にとらえた。


 黒い影は繁華街を離れ、塁壁を飛び越え谷あいの集落の灯火を置き去りにして、切り立った夜の岩山を尋常ではない速度で駆け抜けていく。


 ランジェがこれだけ仙術を駆使しても、なかなか距離が縮まらない。何という足の速さか。なるほど、走狗や雷虎どころの速度ではない。


「――そう来なくっちゃね」


 一目見た時から、彼女はる気だった。呆然と見過ごすには怪しすぎたし、何よりにはもってこいだと思えたのだ。


 自分はこれから仙鬼に、つまりは魔を打ち払う聖戦士になるのだ。それが、どうしてこんなものを安穏と見逃せようか。


 わだかまる原始の闇に包まれた周囲は、牙のようにとがった前人未到の大岩宿が軒を連ねている。まるで巨大な龍の口にでも迷い込んだかのようだ。


 ランジェは大きく羽ばたくようにして身を沈め、さらに羽毛のごとく高く、――より高く夜の虚空を舞い上がった。


 星の光を受けて美の結晶のような横顔がきらめく。


 地上数十メートルまで一気に飛び上がり、そして一閃。――流星のように標的めがけて急降下する!


 ――ズンッッ!!


 その勢いのままに、大地を穿たんばかりの踵をたたきつけた。


 ――ズ、ズズズザザァ……。直撃を受けた大岩は粉砕され、割れるのでも砕けるでもなく、まるでかたちたる存在の核心を撃ち抜かれたかのように粉々となり、砂礫となって崩れ落ちた。


 寸でのところでそれを躱していたケダモノは、巨大な四足で地を掻き、泡を食ったように逃げていく。


「フン。なによ――逃げるだけ?」


 ――タン。揶揄する鈴鳴りに先んじるは、さらなる震脚。


 ランジェはさらにそのガラス細工のような左足を大きく踏み出し、大地に突き立てたのだ。


 しかしその音はいかにも軽い。ただ叩くだけの可憐な音色。いやしかし、ただの踏み込みではない。


 その軽やかな振動は徐々に、徐々に静かな波となって岩肌を伝い、次第に巨大な津波となって本来は頑健なはずの大岩を殺到せしめるのである。


 石礫磊落せきれきらいらくの大津波だ。いかなケダモノであれ、これに飲み込まれては命はあるまい。


 逃げろ逃げろ……。少女は美貌を眇めて獰猛にほくそ笑む。そうして逃げた先、もはや避けられぬ機を待って、詰めの一撃を見舞うのだ!


 ランジェはうねる岩津波の上に腕を組んで直立したまま、目下のケダモノを鷹のような眼光で見据えた。


 しかしそこで、それまで背を向けて一目散に馳せていた黒いケダモノは何を想ったのか、四肢を踏ん張り急停止したのだ。


「――なに?!」


 ケダモノは振り向き、その両の目をかっと見開いた。


 ぎょろり、と。金色の――巨大な目玉だった。闇の中で二つの満月のごとくそれは輝く。その眼光たるや、いかな形容も寄せ付けぬ威容を放っていた。


 いかな妖獣、魔獣とて、果たしてのこのような視線を持つものだろうか? 


 ッと、そのときランジェの体幹に、まるで熱いつららでも差し込まれたような、寒気にも似た火のような感覚がほとばしった! 本能的な畏れだ。


 ケダモノは一転進行方向を変え、やおら牙牙牙牙牙ガガガガガッッ! と轟音をわななかせながら岩津波を受け止めたのだ!


「――ッッ!」


 耳を弄するような炸裂音がさざ波立ち、次いで――シンと波打つ無音の衝撃が、冷えた夜に伝播し、そして消えていった。


 それは一つ一つが砲弾にも等しい巨石の濁流。そこへ真正面から突っ込めば、いかな怪物とて無傷では済まない――はずだった。


 しかし、どうやったのかもわからないが、この黒いケダモノはその濁流を受け止め、あまつさえ跳ね返して見せたのだ。

 

 ――否。その光景はケダモノが威容イヨウッ、と異形の両腕をかざした途端に、岩津波の勢いが……何かに、まるでかのように弱まり、ついにはさざ波めいてふわりと散華してしまったように見えた。


 後に残るのは砂礫交じりのただの砂場だ。まるで仙術――こんな奴が!? それはありえないことだ。


 しかし今も砂山の上に立つランジェを睨み返してくるその威容は健在である。


 というより負傷らしい負傷などどこにも見受けられない。――無傷? まさか!? どうする? 今度は反撃を受けるのでは?


「って、なによ。これじゃまるでッ」


 ――私が、おびえてるみたいじゃない!


 いつの間にか自分が後退りしていたのを知ったランジェは、っと世にも稀な美頬を赤らめ、奥歯を食いしばった。


 ――上等! むしろ、こうでなくては腕試しにならない! 


「あっそう。それなら、こっちもで行くわ!」

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