第3話 亜羅漢


 聞こえてきたのは女たちの悲鳴だ。そして男たちの怒号がそれに続く。


 桃色の髪の少女は目にも軽快な動作で丸窓に飛びつき、猫のような柔軟性で身を乗り出した。すると勢い余って、特有の柔らかな身体がせり出すようにして窓枠の上でたわんだ。


「ああ、なんてこった。お客さん、危ないですよッ」


 往来を挟んだ楼閣の屋根の上を、何者かが走り去っていく。すさまじい速度、そして身のこなしだった。


 人の動きではない。そして確かに垣間見たその姿!


 まるで獣だ。否、それは獣というよりもさらに奇怪で、いびつな――。



 ――亜羅漢アラカンだ! 亜羅漢が出たぞお!! ――



 男たちの荒々しい声が響く。けたたましく警鐘が打ち鳴らされて、ある種の喝采にも似た、混然とした喧騒と怒号が波打つようにして広がっていくのを、少女――リ・ランジェは目撃した。


「あれは何!?」


 ランジェの誰何すいかに店主はため息を漏らし、吐き捨てるようにして応える。


「この辺りでは、誰が呼んだか亜羅漢(アラカン)と呼ばれとります。まぁ、困ったヤツでしてな。ものは壊すわ、夜道で人を脅かすわ。さらにはかっぱらいみたいな真似まで……」


「そうじゃなくて! あれって魔仙ませんじゃないの!?」


 魔仙――それは読んで字のごとく〝魔なる者〟。


 其は墜ちたる仙であり、罪人。許されざる者ども。この楽園のごとき仙崖郷、唯一の汚点であるとされる存在だ。


 ランジェが目指す仙鬼とはこの魔仙なる無法の徒を探し出し、狩る役目を持った戦士のことなのである。


 垣間見たあの姿は、まさしく伝え聞く魔仙の異形を想わせるものだった。


「はぁ……それがわしらにも詳しいことは分からんのです。……いつの頃から居るのか。どこから来るのか……。何者なのかも……」


「……お勘定おねがい」


 するとランジェは言って、束になった紙銭を無造作に食卓の上に置いた。最下層ではまず目にできない、刷ったばかりの新札である。


「こ、こんなにいただけませんよ!」


 店主は驚きのあまり先ほどにも増して目を見開き、代金とランジェとの間で視線を惑わせる。


「いいのよ。それよりに必要なもの見繕ってくれる? ここより下に宿はないんでしょ?」


 ランジェはさらに言い付ける。すると店主はさらに、あらん限りにぎょっとして、


「まさか追いかける気ですか!? そりゃああんた、やめといたほうがいい! 亜羅漢はああ見えて大力無双! 誰の手にも負えんのですよ。いままでだって、何度も何度も腕自慢の大男が挑んでは返り討ちに合い、這う這うの体で戻ってきてるんです!」


「ふぅん? でも、戻っては来てるのね? 食べられたりはしないんだ?」


「はぁ、そりゃあそうですが……ええ、まぁ悪さをするとは言っても、ついぞ人を殺したってぇ話は聞きませんが……」


「ちょうどいいわ」


「それにですねぇ。ここから下は人の住む場所じゃあないですよ? 亜羅漢以外にもならず者や小汚い浮浪者も……って、今なんと?」


「なおのこと、良しといったのよ。ちょうどよかったわ。退屈な修行になるかと思ってたところだから!」


 少女は総身をひるがえす。途端に、パツッと内側から張り詰めるような見事なボディラインが強調される。


 嗚呼、その何気ない立ち姿が――まぁ、これまた言葉を尽くしても足りないほどに様になってしまっているのだ。まるで泡沫の女神像のようだ。


「……はぁ、ですが、そのぅ」


 店主はしばし言葉を探すようにしてもごもごしていたが、自分にできることはないと悟ったのだろう。


 黙って頭を下げ、束になった紙貨を手に取り、頭上に掲げて深く頭を下げた。


「家宝にいたします。どうかよしなに」


「好きにして」


 やわと手を振り、ランジェは席を離れた。


 さて、亜羅漢。……あれは、何者だ?

 

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