序章 それぞれの旅立ち
風眞蓮
秋の暮れの木枯らしが吹き抜ける東京都三宅島。
夕日に当てられた雄山は今は落ち着いており、前回の噴火から幾分か時が経ち島民達も戻ってきていた。
麓の街の商店街では魚屋のおじちゃんや肉屋のおばちゃん、花屋のねえちゃんがあともう少しと精をだし、若い子連れの女性がせかせかと買い物に周り、子供が巣立ったであろう中年の主婦たちが肉屋のコロッケ片手に井戸端会議をしている。
そんななんの変哲もない田舎の商店街。
誰が見てもほのぼのとした商店街、その隅にある酒屋と住宅街の間の路地。
酒瓶を詰めるプラスチックケースが何個も重ねられたその裏に、その少年はいた。
彼の名は楓眞蓮、11歳。
島に唯一存在する学校に在籍する小学5年生の男子で、居酒屋から路地を歩いて10分ほどのアパートに住んでいた。
便利な道だろう、家から道なりに行けば商店街につく路地裏は。
この夕闇が降りてくる時間帯に、その道を使う人間はほとんどいない。
なぜか?
小さな島にも不良というのは存在しているわけで、気楽に集まれる場所がその路地裏だからだ。
そうでなくてもこの時間から街灯のない路地裏は薄暗く、何か「どこか別の所」につながっていそうだと実しやかに囁かれている場所だ。
ではなぜ彼はそんなところにいるのだろうか。
肩が震え、ケースがカタリと音をならす。
秋の肌寒い時期だというのに、ノースリーブで蹲っている蓮の足元は、濡れていた。
ここ1週間は晴れ続きだったから濡れるなどありえない。
しかし彼の足元は濡れている。
右手に握られている包丁から滴る血液で。
「もう……、やだよぉ……。」
か細く掠れる声で嘆く蓮。
この少年に何があったのか、それを知るには大分時を遡らなければならない。
始まりは些細なことだった。
いや、なるべくしてなったと言うべきなのだろうか。
蓮の両親は元々は島外の人間で、狂人の様に暴行などの犯罪を犯し、親戚のいた三宅島に島流しのような状態で引っ越してきた。
12年前のことだ。
アパートの1室を割り当てられた男女は、仕事をするわけでもなく過ごし、その結果に妊娠した。
男女は子供を堕胎しようとしたが、親戚がそれを許さなかった。
子供が生まれれば何かが変わるかも知れない、そんな悲惨な計算がそこで行われていたかもしれない、生まれ来る命を奪う事はしてはいけないという、良心的な考えがあったのかもしれない。
なぜそうなったのかはわからない、しかし10ヶ月と10日後、赤子は産声をあげた。
赤子の名は楓眞蓮、特に何の変哲もなさそうな男の子だった。
親戚の考えが叶ったのか、両親は最初蓮を可愛がった。
父親は漁師として仕事を始め家計を支え、母親は育児に一生懸命奮闘した。
か弱い小さな命が、犯罪者2人を更正させたのだ。
蓮が4歳の時だった。
きっかけなど些細なもの、まだトイレトレーニングが途中だった蓮が、寝起きにおもらしをしてしまったのだ。
そう、おもらしをしただけ。
たったそれだけの出来事が、蓮の両親を元の犯罪者へと変貌させてしまった。
まるで、何かにとり憑かれたかのように。
否、何かが燻っていたのだろうか。
それとも、蓮にそうさせる何かがあったのだろうか。
仲睦まじい家族がいたはずのそのアパートの1室は地獄へと姿を変えてしまったのだ。
母親が蓮をしかっただとか、父親がうんざりしただとそういう予兆すら見せず。
母親が連を叩いた、叱る時の叩き方ではなく全力で。
そしてそれを見た父親が、躾だと残酷な笑みを浮かべ吸っていたタバコの火を蓮の股間部に押し付けた。
絶叫が木霊した。
もちろん近隣の人間や親戚、善意の第三者が駆けつけた。
しかし、誰も何かをすることはなかった。
第一発見者が見た光景は、両親が蓮にタバコを無理やり吸わせ、むせこむと自分たちが吸っていたタバコの火を身体中に押し付けるという凄惨な場面だった。
止めることはできなかった。
もしも介入すれば、自分や家族に被害が及ぶ。
その考えは、駆けつけた全員に伝播した。
元々が罪を犯し続け流されてきた夫婦、それが戻れば捕まったとしても刑務所から出てきてこちらに被害が及ぶ。
それは容易に想像出来てしまう事だった。
かくして蓮は人身御供となった。
たった4歳の幼児が、周りの平和のための人柱と定められてしまったのだ。
そこからは想像に難しくなかった。
年を重ねるごとに虐待は頻度と残酷さを増していく。
しかし誰もそれを言うことも、法務機関に通報することもない。
なぜなら、楓眞蓮という名の人柱を失うことになってしまうのだから。
なぜそんな蓮が今ここにいるのだろうか、しかもノースリーブにパンツで裸足という異常な姿で、包丁をもって。
それが蓮に許された家での服装だった。
何年も洗っていないノースリーブシャツは、茶色で穴だらけ焦げだらけで体型に合うはずもなく腹は丸出しで、白いブリーフももう何年洗っていないかというシミとコゲ穴、そして不自然に開けられた穴が空き体格に合わない。
ガリガリにも関わらず服は、ピチピチをとおりこして腕や股にうっ血痕が残り、脂でネトネトを通り越した髪の毛はざんばらに切られ、所々焦げている。
首には首には絞められた痕の上から首輪をつけられていて、どういう扱いをされていたのかを想像すると恐らく吐き気を催すだろう。
「ひっぐ……、もうやだぁ……。」
止まらない涙を流し続ける虚ろな目は藍色と橙色を撒いたような美しい空を見ていたが、しかしその瞳はなにも写してはいなかった。
「ぼくも……。」
蓮は学校には通わされていたから殺人の意味は知っている。
自分がそれを犯してしまったことも理解している。
そして、誰も救ってはくれないだろうと言うことも。
年齢の割に聡明だった蓮が絶望し、黒より黒く染まった人生に幕を下ろそうとするのはある意味当然と言えるだろう。
「……。」
やり方はわかっている。
ボロボロのシャツの左胸に包丁を深々と突き立ててればいい。
両親にそうしたのだから、自分にだって出来るはずだ。
胸に包丁をつきたて深呼吸をする。
怖い。
力を入れようとしてもなかなか入らない。
死にたくない。
胸元に触れていた包丁の先端が離れる。
でも、死ぬしかない。
再び触れる金属の刃。
怖い。
やはり離れる刃。
助けて欲しい。
心が救いを求める。
誰か。
何年間もずっと叫んできた。
誰か。
しかし誰も助けてくれなかった。
誰か……。
学校の先生も同級生も、周りの人だれもが。
誰も来るわけがないんだ……。
そう、誰も来るわけがない。
さよな……
沈みゆく太陽と呼応して、藍色に染まる空に流されて、蓮の瞳が黒く落くぼんでいき…。
「なあ蓮、死ぬこたねえんじゃないか?」
「だ、だれ!?」
突然だった。
名を呼ばれ驚き、思わず握っていた包丁を取り落とす蓮。
カランカランという音とともに凶器は血を撒き散らし、アスファルトを染めていく。
「なあ蓮。」
「だ、だれなの!?」
声のした方を見ると、酒瓶のケースが邪魔で誰も見えない。
蓮は恐る恐る顔をだす。
すると、夕日が射して影になっているものの、ガタイのいい男が路地裏の入口に立っているのが見えた。
「蓮、死んじゃダメだぞ?」
「……。」
「俺は悲しい。」
「……。」
男は蓮の戸惑いなど意に返さず言葉を吐き出す。
その声色はとても優しく、どこまでも優しく蓮の耳をくすぐる。
しかし……。
「う、うるさい!いままで誰も助けてくれなかったんだ!どうせ、どうせぼくなんて!」
「蓮……。」
「おじさんだれ!どうせたすけてくれないんでしょ!」
「……。」
「どうせ!どうせどうせどうせうわああああああああああああああああ!」
その言葉は蓮の神経を逆なでするだけだった。
どうせ。
たった3文字の言葉にどれだけの希望と、どれだけの絶望が詰まっているのだろうか。
蓮はさっと凶器を掴みケースの影から飛び出すと、勢いよく男に突進した。
もうどうなっても構わない、よりももうなにも考えることが出来ない。
その突進は蓮の慟哭、傷つけられ続けた魂の叫びそのものだった。
「……。」
その叫びを、男は避けることなく受け止める。
避けられなかったのか、はたまた避けなかったのか。
それを蓮が知る前に、凶器は深々と男の腹部を貫いた。
肉を裂き筋肉を千切り、ぐちゅりと内蔵を刺す感覚を今日だけで何度感じただろう。
それもどうでもいい、だって自分も死ぬのだから。
「……。」
男が膝から崩れ落ちる。
そして蓮に覆いかぶさり……。
「……!?どう、して……?」
「……。」
蓮が押しつぶされる事はなかった。
男は膝をつき、蓮を優しく包み込んだのだ。
どうやら隻腕のようで右腕が回ってくることはなかったが、左腕一本で十分すぎる程に強く蓮を抱き寄せ、呟く。
「蓮、俺はお前の味方だ。刺されようと、蓮が何をしようと。」
と。
「なん、で……?」
先程までとは違う涙が溢れてくる。
それは絶望に満ちた冷たいものではなく、優しさに触れ融かされた暖かいものだった。
「だって、蓮はずっと頑張ってきたじゃないか。確かに今まで蓮の事は知らなかったけど、それでも頑張ってきたのはわかるよ。」
「ぼく……、ぼぐぅ……!」
流れる涙が止まらない。
誰も止めようとはしない。
しかしそれは悲しみではない。
初めて受け入れられ、初めて救われた者が流す喜びの涙だった。
蓮は小学校に上がってすぐにいじめられ始めた。
一年中同じ服をきて、しかも洗っていない為匂いが強烈。
風呂に入っている様子もまったく見えないし、給食は手づかみで下品に食べる。
しかも両親は近所ではれもの扱い、いじめられない方がおかしいというものだ。
「臭い」
「汚い」
「バイキン」
「気持ち悪い」
「疫病神」
列挙すれば数え切れない暴言の数々と、暴力。
教師は最初どうにかしようと蓮の両親と面談をしたが、しかしその教師が暴行を加えられ入院したという話が出てからはそれをするものもいなくなってしまった。
島中の人間に対する人柱。
いつからか蓮は全ての闇を抱えるような存在へとなってしまった。
しかし、蓮は希望を捨てなかった。
いつかまた両親が優しくしてくれ、テレビで見て憧れたような友達も出来る。
そのことだけが、蓮に生きる力を与えていた。
「蓮、もう平気?」
「うん……、ごめんなさい……。」
「謝らなくていいんだよ、避けようと思えばよけられたし。」
「でも……。」
「いいから。」
脂ぎった頭を平然と撫でてみせる大男。
蓮は記憶にある中で初めて感じたその感覚に凍った心を溶かし、男に謝る。
「でも、ぼく……。」
「なんだ?」
「その……、おじさんのこと、死んじゃえって……。」
「だいじょぶだよ、ほら。」
男は蓮の言葉に笑うと、一度抱きしめていた腕を外し凶器を握ると、あっさりと引き抜いてみせた。
蓮は目をつぶった、そこに自分が作ってしまった刺し傷があるから。
「見てごらん?傷なんてないから。」
「え……!?」
しかし、次に聞こえてきた男の声に驚き、思わず目を開けてしまう。
蓮の目に飛び込んできたのは灰色のパーカーと白いシャツをめくった男の腹で、そこに刺し傷はなかった。
「なんで!?」
確かに刺してしまったのに。
「ふふん、魔法さ。」
「魔法!?おじさん魔法が使えるの!?」
「おじさんはよしてくれよ……。これでも見た目はまだ若いぞ?」
「あ……、ごめんなさい……。」
大分斜陽に目が慣れてきた蓮は、改めて男の顔を見る。
男はぱっとみ外人のような見た目で、短く切った尖り目の赤茶髪に整った顔つき、そして眉間には切り傷の跡があった。
「お兄さん、目が綺麗……。」
何より蓮の関心を引いたのはその瞳だった。
右目が黄色く左目が黄緑色で、見つめているとなぜか心が安らぐようだ。
「おう、ありがとな。」
「えっと、お兄さんは外人さんなの?」
「んー、間違ってるけど間違ってねえな。」
「ど、どういうこと?」
ハッと我に返った蓮は傷のことを忘れ、素っ頓狂な声で質問をする。
「まあその話はそのうちしてあげるからな、今はそれよりも……。」
「……!」
「なあ蓮、俺といっしょにここを出ないか?」
笑って細くなっていた男の目が真剣そのものといった眼差しに変わり、蓮は怒られると反射的に身体がこわばってしまう。
しかし、その後に続いた言葉はどこまでも予想外で、一瞬蓮は理解が出来なかった。
「……いいの!?ぼく、お兄さんとここから離れるの!?」
大分大きな声だっただろう。
蓮は出したあとに口を覆い、誰かに聞かれていたらどうしようとイミのない心配をする。
「おう、じゃなかったらそんなこと言わねえよ。ただ……。」
「ただ?」
「簡単に言うとな、蓮は魔法を使う才能があるんだ。だから俺と一緒にきてその才能を使えるようにして欲しい。でもそれは危ないことだし、もしかしたらそこで死んじゃうかも知れない。怖いことだってたくさんある、それでも俺は蓮についてきてほしい。」
「……。」
「もし断っても構わない、それでもここから連れ出して蓮が幸せになれる場所まで連れてってやる事は出来る。」
「……。」
蓮は悩む。
初めて出会ったこの男、自分を今まで見捨ててきたのと同じ大人に。
信じてついて行っていいのか、と。
けれど、自分が殺そうとしても許してくれた、優しく抱きしめてくれた。
そんな男に、ついて行っていいのかと。
答えはきっと、今出さなければならない。
それは。
「……、ぼくは……。ぼくは、お兄さんといっしょにいきたい……。」
「いいのか?死ぬかも知れないんだぞ?」
「うん……、でもぼくはいっしょにいきたい、ぼくを助けてくれたお兄ちゃんと。」
それは死というものを軽んじた発言かも知れない。
初めて優しくされたからころっと落とされてしまっただけかもしれない。
しかし、蓮のその双眼は本気であることを語っていた。
「お兄ちゃんのこと殺そうとしたのに、それでもいいって言ってくれたから…。ぼくに出来ることがあるなら、したい!」
「……。ありがとう、蓮。」
男はもう一度蓮を抱きしめると、優しくそう答えた。
今日、何故いままで耐えていた蓮が両親を殺すという凶行に及んだのか。
今日は蓮の11歳の誕生日だった。
蓮は一年のうちこの日だけは、希望に満ち満ちていた。
もしかしたら誰かが祝ってくれるかもしれない。
もしかしたら両親がまた昔のように変わってくれるかもしれない。
もしかしたら友達が出来るかもしれない。
子供にとって誕生日とはそれだけ特別で、その響きは誰もを魅了する素敵な日だった。
しかし、現実は残酷だった。
朝起きて母親に出されたのは人参と大根の皮、それに炊いていない米が振りかけられたもの。
それらを犬用のエサ入れに入れられているのを文字通り犬のように食べるのが、蓮の一日の始まり。
食べなければ暴力を振るわれる、食べても暴言を吐かれる。
でも、痛いよりはましだ、と蓮はそれを甘んじて食した。
学校についてからはいつもどおりいじめられ、しかし給食は美味しいものを食べられる。
午前中は給食に想いを馳せ、腹痛と空腹を耐え忍んだ。
そして待ちに待った給食は。
いじめをしていた主犯格によって落とされ、全て汚い床に並んだ。
しかもそれを取り巻きが踏みつけ、それはそれは無残なモノに変貌してしまった。
「おいゴミ、食えよ。」
それは残酷すぎる命令だった。
にやにやと笑い蓮を取り囲む同級生、それを見て見ぬふりする担任。
楽しみにしていた給食の凄惨な末路、しかし空腹には抗えない。
どうせいつも家でやっていると、蓮は這いつくばり舌を伸ばした。
「うっわ!ほんとに食ってやがる!きっもー!てめーなんて生きてる価値ねえんだから死ねよ!しーね!しーね!」
罵倒の大合唱の中、蓮はそれでも床を舐める。
暖かいご飯など、これしかないのだから。
主犯格に頭を踏みつけられても、それでも床を舐め続ける蓮。
不思議と涙はこぼれなかった。
それは日常であり、当たり前だったのだから。
蓮はそれでも希望を失わなかった。
いつか記憶の彼方にあった、大きなケーキと暖かい食事を夢見て、ルンルン気分で家に帰った。
その夢はいとも容易く踏みにじられるとも知らずに。
帰ってきて一番、イライラしていた父親に殴られた。
理由なんてない、鬱憤ばらしだ。
そして鼻血をだし倒れた先で、母親に顔を思い切り蹴られた。
頭がぐわんぐわんする、後一度蹴られれば意識が消えそうだ。
蓮はただいま帰りましたと土下座をすべく身体を起こそうとしたが、しかしそれは叶わなかった。
ジューッという音とともに、背中にいつも感じる痛みを感じた。
それは父親が背中にタバコを押し付けたことによる痛みで、それも蓮にとっては日常だった。
痛みに叫べば更にひどいことをされる、それを知っていた蓮は必死に耐えた。
しかしそれは叶わず、父親はさらに酷い暴行を加え始めた。
「ねえ、一つお願い、してもいい……?」
「なんだ?」
蓮は男の腕から離れると、少しためらい気味に言葉を口にする。
「お兄ちゃん、って呼んでも、いい?」
「……。」
蓮の申し出に男は声を返さない。
蓮はやはりダメかと絶望する。
自分なんかはそんなたいそれたことを言ってはいけなかったんだ、と。
「いいぞ?今から俺は蓮のにいちゃんだ!」
「ほんとに!?や、やったー!」
しかし返ってきた言葉はつくづく予想外で、蓮はその言葉を理解した瞬間飛び上がるような幸福感に胸を満たした。
「あ!お兄ちゃんの名前知らないや!」
テンションが上がりすぎて自分で何故それを声高にいうのかわからなくなるほどに喜ぶ蓮。
男は顔をクシャっと歪めて笑うと、頭を撫でる。
「俺はディンだ。よろしくな、蓮。」
「ディンお兄ちゃん!カッコイイ!」
「そうか?ありがとな。」
今なら嬉しさでションベンでも出してしまいそうだ。
それほどの嬉しさを全身を使って表す蓮。
それを見て男、ディンは少しだけ顔を歪める。
たったこれだけのことでここまで喜んでしまえる程、この子の人生は悲惨なものだったのか、と。
「まったくクソガキが……。」
一通り蓮を殴り続けた父親。
母親はそれをみてゲラゲラと笑い、父親とハイタッチをした。
「……。」
蓮は両親の下卑た笑い声を聞きながら、思い出した。
今日が自分の誕生日だということを。
「……。」
誕生日とは自分が生まれた日のこと。
自分を生んだ両親に何故ここまでされなければならないのか。
ずっと目を背けていた、しかし心のどこかにずっとあった疑問を思い出した、その瞬間。
「……。」
蓮のわずかな希望が、絶望へと飲み込まれた。
一片の光も刺さない絶望の底。
そこに辿りついてしまった蓮の行動は、誰も動けなくなるほど早く衝撃的で、そして必然的だった。
「うわああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
蓮は叫んだ。
叫び、そしていつもは自分の命を脅かすそれを振るうべく立ち上がった。
痛みも苦しみも忘れ、蓮はまるでアスリートのように早く正確にたどり着いた。
そこは台所、目指すは包丁。
そこからは簡単だった。
驚き戸惑い動けないでいる母親に思いきり包丁をつきたて、その凶器は軽々と母親の心臓を2つに穿った。
「ぎゃああぁぁぁ!?!?!?」
断末魔とともに引き抜かれる凶器、吹き出す血飛沫。
次なる獲物を求め蠢く血濡れの凶器が、恐怖で失禁した父親へと向けられる。
「みんなっっっっ!みんなしんじゃえーーーーーーーーー!」
獲物に食らいつく猛獣が如く、正確無比なその刃は完璧な軌跡を描き父親の心臓へと吸い込まれた。
狂気に落ちただけでは絶対に成し得ないであろうその行為。
恐らく、蓮は心のどこかでずっと考えていたのだろう。
自らが手を下すことを。
かくして残されたのは血濡れの刃、返り血で服や身体、髪を赤く朱く染めた蓮、そして血だまりに倒れ伏す男女。
「……!」
我に返ったとき、蓮は恐怖した。
自らに、見てしまった光景に、そしてその罪に。
逃げ出すしかなかった。
外に出るような格好ではなかったことはわかっている、しかしそれを考えられる程蓮に余力は残されていなかった。
「ほら、傷が癒えただろう?」
「ほんとだ!ディンお兄ちゃんすごい!ぼくにも出来るの!?」
「蓮はちょっと違う力だけどな、ほら服着ろ服を。」
「ありがとー!」
ディンが何かわからない言葉を唱えると、蓮を淡い緑の光が包み身体中の傷が癒えていく。
蓮は痛みがなくなっていくのを感じると感激し、ディンに渡されたパーカーをすっぽりと被って笑う。
「えへへへ。」
「さて、行こうか。」
嬉しそうに笑う蓮の頭を撫で、立ち上がるディン。
蓮に手を差し伸べると、蓮は小さな両手でディンの左手を握る。
「準備はいいか?」
「……。お父さん、お母さん、ごめんなさい。でも、ぼくは生きて行きます。ぼくを助けてくれたお兄ちゃんの力になりたいから……。だから、さようなら。」
「……。」
蓮が独り言のように家がある方向に呟くと、ディンは無言で魔力を練り上げ、魔法陣を形成した。
「さあ、我らをかの場所へ。」
そう呟くと魔法陣が光輝き、それとともに2人はどこかへと消えてしまった。
木枯らし吹き荒れる路地裏に、血染めの凶器だけを残して。
月影に覆われた路地には誰もいない。
そう、ここは誰しもが避ける道。
大きすぎる絶望と儚すぎる希望を持った少年が涙をこぼし、そして救われた場所。
その場所に二度と還る事はないと知って、少年は何を思うのか。
それは、未だ誰も知らぬ未来の話。
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