劣情

「僕が君を生かした……いや、死なせてやれなかった理由はこれだけ」

「……わかりました」

 そうは言っても、蓮花は言葉として吸血鬼の言っていることが理解できただけで、全く信じられていなかった。

 吸血鬼は蓮花のことが好きだから死んで欲しくなかったという。

 蓮花は吸血鬼という生物のことをよく知らない、だから血の味が好みだからとそのままその血の持ち主に恋情のような感情を抱いてしまう吸血鬼の精神構造も言葉として理解するのは簡単だが、実感しろと言われると難しい。

 しかもその好意と執着がよりにもよって蓮花が世界で一番嫌いな自分自身に向けられているので、余計その言葉が信用できないのだ。

 だから蓮花は吸血鬼が語った言葉をもう一度反芻して、蓮花にとって理解のしやすくて都合に良い言葉に置き換えていく。

 何度も置き換え、最終的に納得できる言葉の羅列を作り上げた蓮花は少し安堵したような顔で吸血鬼に問いかける。

「要約すると……つまり、私が死んだら私の血が飲めなくなるから生かした、っていう……?」

 蓮花にとって自分自身が好かれていると考えるよりもそちらの方がよほどわかりやすいし納得できる。

 しかしその言葉を聞いた吸血鬼はさっと顔色を変える。

 先程までの全てを諦めきったような雰囲気は掻き消え、代わりに蓮花にとってはよく見慣れた怒りと憎悪が入り混じった怪物じみた形相で蓮花の顔をギロリと睨む。

「……それだけなら最初からそう言ってる。君の血の味に依存して、この味を失いたくなかったから生かし続けただけだって、君なんかただの生き餌だ、と……」

「…………違うんですか? そう考えた方がわかりやすかったのですけど」

「違うからここまで拗れているんだよ。ただそれだけだったら僕だってここまで拗れなかった、ただの餌だと割り切れたらどれだけ楽だったか……」

 ぼそぼそと呟くようにそう言いながら吸血鬼は蓮花の両肩を掴み、押し倒した。

「っ!?」

「馬鹿な女、今の話で納得していれば僕の狂気を知らずに済んだのに……」

 そう言いながら吸血鬼は裸のままだった蓮花の胸を右手で鷲掴みにした。

「ひっ!?」

 今更のように湧いてきた羞恥心で蓮花の顔が赤く染まる。

「今更そんな初心っぽい反応するの? 今まで隠そうともしなかったくせに?」

「……それ、は」

「わかってるよ。だって君にとって見られることなんて当たり前のことだったもんね? この、売女」

 あの博物館の檻の中で蓮花は数年ほぼ裸のような状態で過ごしていたし、吸血鬼との逃避行の間にも背から石がはえてくるせいで何度も服を駄目にして、そのたびに吸血鬼に肌を見られていた。

 初めは肌を見られることをはしたないと思っていた蓮花だったが、吸血鬼には特に気にしている様子がなかったし、蓮花の裸を見たところで無反応だったので自分ばかりが恥じている状態というのもなんだか自意識過剰なことに思えてしまって、次第に羞恥心が薄れていったのだ。

「思い知らせてやる、僕が今まで君にどれだけ汚らしい思いを抱き続けてきたのか……でなければ気が済まない……」

「きゅう、けつきさん……」

 頭の悪い蓮花でも自分の発言が吸血鬼の地雷を盛大に踏み抜いたことだけは理解できた。

「僕は君に劣情を抱いている。吸血鬼の食欲は情欲とほぼ同義だと言っただろう? だから僕は君を喰らい尽くしてしまいたくなると同時に犯してしまいたいと思っていたんだ、今だってそう思っている」

 そう言いながら吸血鬼はもう片方の手で蓮花の薄い腹を撫でた。

 身を硬らせた蓮花の様子を満足げな顔で見下ろして吸血鬼は言葉を続ける。

「あの博物館から君を攫ってからそれほど長くない間君と一緒にいたけど、僕がどれほどの欲望を押し殺して君をそばに置いていたかなんて、ちっともわかっていなかったんだよね?」

「よくぼう…………そんな、そぶりは」

 少なくとも蓮花から見ると吸血鬼にはそういった欲のようなものはなかった。

 彼はただ蓮花を側に置いてくれただけだった、蓮香が背から石をはやせばその血を少し吸った後に自分の血で渋々と言った様子で治療してくれて、蓮花が悪夢に飛び起き泣じゃくればおとなしくさせるためにその懐に引き寄せ親が幼子にそうするように抱きしめてくれた。

 そこに彼が言うような欲望、肉欲のようないやらしい感情は一切見られなかった。

 だからこそ、余計に離れ難くてずるずると生き続けてしまったのかもしれないと蓮花は思う。

「見せるわけないだろう。そんなそぶりを見せて君に死なれたら困るじゃないか。ちょっとしたことで君があっさり死のうとすることなんてわかってたからね……無理矢理組み伏せて眷属にして自分では絶対に死ねない身体にしてやって、それで絶望する君の顔を見るのも悪くないとも思ったこともあるけど……恐れられるよりも縋られる方がいいからね、それは本当にどうしようもない時の最終手段ということにしておいたよ……そうとでも思わなきゃ、本当に襲ってしまいそうだったし」

「おそ……」

 蓮花の顔が困惑に染まる。

 その顔を吸血鬼は怨敵でも見るような目で強く睨め付ける。

「散々言ったけど、僕は僕が君に向けるこのどうしようもない執着と欲望をなんとしてでも否定したかったんだ。だって本当はただの食欲なんだもの。ただの食欲なんかに支配されて、あの男とまるきり同じことをしたくなかった。それに僕にとっての一番は君みたいなどうしようもない超能力者じゃなくて弟だ。それなのにこんな情欲を君に向けるだなんてまるで僕が本当に君のことを好いているみたいで気持ち悪い……そういう理性みたいなものがあったからなんとか我慢できた、それがなかったら君はとっくに僕の腹の中か、あるいは生き餌として何もかもを奪われ支配されていただろうね」

 あの男というのはおそらくかつて吸血鬼を誘拐して監禁したという犯人の男のことだろう、と蓮花は推測した。

「悪夢に泣き叫んで僕に縋り付く君を見て、どうして君を泣かせているのが僕でないのだろうと、君のことを酷く痛めつけて僕が泣かせてやりたいと思ってたことなんて、君は知らないだろう?」

「しらな、い」

 泣きじゃくり、時に暴れる蓮花を彼はいつも呆れたような顔で取り押さえていた。

 その顔には『またか』という呆れと眠りを妨げられた怒りしかなかったはずだ、少なくとも蓮花にはそれしか見えていなかった。

「それをどうにか抑え込んで君を宥めて、それで泣き止んだ君に涙でぐちゃぐちゃになった顔で安心し切った表情をされた時に僕が吐き気がするほどの優越感に浸っていたことだって気付いちゃいなかったんだろう? いい匂いのする薄っぺらくて柔らかい身体を抱きしめて、あちこち齧り付いて犯してやりたいという衝動をなんとか噛み殺していたことだって知らないはずだ、君は愚かで呑気だからねえ……その衝動を抑え込むだけで精一杯で、君の声に応える余裕すらなかった僕を君はなんて言ったんだっけ?」

「え?」

 吸血鬼が言っていることは蓮花にとっては全く知り得ないことばかりだったが、最後の一つに関しては少し心当たりがあった。

「寝穢い、って言ったんだよ君は、能天気に笑いながら……冗談じゃない、そう言われた時その顔を切り裂いてやろうかと思った……本当に腹が立つ……」

「ご、ごめんなさい……」

 そんなことを言われてもと蓮花は思ったが本気で怒っているようだったので謝ることにした。

 それにしても起きていたとは驚きだと蓮花思った、ひょっとして昨晩も起きていたのだろうか? とも思って蓮花は思わず胡乱げな表情を浮かべる。

 あんな訳のわからない状況でも蓮花が状況把握にのみ務めたのは吸血鬼を起こさないためだった、それなのにそんな気遣いは全て無駄だったということになる。

 あのわけのわからない時間はなんだったのかと蓮花は少し気が遠くなった。

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