くらやみ
誰かの絶叫が聞こえて、蓮花は目を覚ます。
蓮花は一拍遅れてその絶叫が自分の声であったことに気付いた。
「い、たい……いたい……」
夢に痛みはないというが、蓮花の悪夢は時折ひどく鮮明に痛みを再現する。
殴られた腹の痛みも、鞭打たれた皮膚の痛みも、石が背を裂き突き破るおぞましい痛みも、かつて何度も味わった通りに鮮明に。
声がまだ頭の中に残っている、歓声と汚ならしい言葉の羅列が染みついて、もうどうしようもない。
おぞましいものを振り払いたくて起き上がろうとした蓮花は自分の身体に何かが絡みついていて、全く身動きが取れないことに気付く。
「っ!?」
蓮花の身体を拘束するのは生暖かくて硬いものだ。
パニックに陥りかけた蓮花の身体を、その『何か』がきつく締め上げる。
その感覚に覚えがあった蓮花は動きを止めて目を凝らす。
あたり一面真っ暗で判断しづらいが、視界の端に見慣れた金色が見えた。
「吸血鬼さん……?」
答えはない、代わりに蓮花を抱き締める力が少しだけ弱くなった気がするが、それ以上の反応はなかった。
「ええと……聞こえてます……?」
答えはない。
「吸血鬼さーん……」
答えはない。
ひょっとして、寝ているのだろうか?
それとも無視されている?
と、蓮花は考える。
仮に今まで眠っていたとしても先程の絶叫と今の声掛けであの吸血鬼が目覚めないわけがない。
しかしそれなら何故吸血鬼は何も答えない?
蓮花は三通りの答えを考える、一つ目は単純に無視されている、二つ目はなんらかの事情で答えられない状況である、三つ目は寝落ちている。
一つ目に関しては意味がわからない、無視するくらいならきっとこんな状況にはなっていないだろうから。
二つ目に関しては現状から察するに可能性は低い気がする、血の臭いはしないし、抱きしめてくる身体から伝わる体温も心音も正常であるように感じたからだ。
三つ目に関して、これが一番可能性が高い気がする、この吸血鬼が意外と寝穢いのを蓮花はよく知っていた。
この吸血鬼は一度眠るとなんらかの危機的状況に陥らない限り目覚めない、目覚めたとしてもよほどの異常事態が起こっていなければ基本的に二度寝三度寝を決め込むのだ。
無理矢理起こそうと思えば起こせるが、その場合は大層機嫌が悪くなる。
蓮花が悪夢に魘されて喚き散らすのはよくある事なので、この程度のことで吸血鬼がわざわざ起きるとは考えにくいと蓮花は結論を出す。
なので蓮花はそれ以上声を発さず、そのままおとなしく現状把握を行うことにした。
まず、ここがどこであるのかを蓮花は考える。
暗闇に多少慣れてきた目を凝らすと、視界の上の方に吸血鬼の髪らしき金色のものが見えるくらいであとはよくわからない。
どうも蓮花の顔はちょうど吸血鬼の胸元に押し付けられるような形になっているらしく、それ以外はただ暗いことしかわからなかった。
真っ暗なのはおそらく夜中であるからだろうか?
全身を包むのは吸血鬼の身体とそれから毛布らしきものとマットレスらしきもの。
上半身に衣服の感覚がないのは背から石をはやした時に服が駄目になったからだろう。
着替えは多めに持ってきたものの、その着替えが入ったキャリーバッグは栫井の屋敷に置かせてもらっているので、他に着せるものがなくそうなっているのだろう。
視覚情報から得られるものは髪らしきもののみ、感覚からマットレスらしきものと毛布らしきものに包まれていることくらいしかわからないので、最低でもここがおそらくどこかの室内であるということくらいしかわからなかった。
次に自身の状態に関して蓮花は思考する。
噛み千切られた首筋と石がはえた背に痛みはないが傷口がどうなっているのかはわからない。
傷口に触れればどうなっているかはなんとなく分かりそうだが、かなりしっかり抱き込まれているので身動きは取れなそうだと蓮花は結論付ける。
なので現状ではひとまず今すぐ死ぬような事態ではない、とだけ結論付ける。
ついでに先程の悪夢の影響で背から石がはえていないことも確認する、となるとあれから三時間経っていないのか、それとも石がはえるほどの感情ではなかったのか。
以前は悪夢程度でもしょっちゅう石をはやしていたが、今は魔女の薬を飲んでいるから多少ははえにくくなっている気もする。
吸血鬼に噛み付かれ、その恐怖と困惑と痛みで石をはやしたのは昼前だった。
それから三時間以内とするとこの暗さは不自然な気もする。
そうするとやはり薬が効いているのでは?
いや、例えばここが地下室などの日光が全く入らない場所である可能性もあるのでまだわからない。
次に蓮花は自分に何が起こって、どうしてこうなっているのかを推理する。
気を失うまでの記憶は飛び飛びで、痛みによってほとんど塗り潰されている。
それでも辛うじて思い出せる記憶の欠片を蓮花は繋ぎ合わせていく。
覚えているのは甘味処を通り過ぎた時に急に空が暗くなって、吸血鬼が突如ナイフで彼の弟に切りかかってきたこと。
吸血鬼の弟に投げ飛ばされた後、吸血鬼に受け止められたこと。
吸血鬼に首筋を深く噛まれたこと、その痛みと混乱により背から石がはえたこと。
ここまでははっきりと思い出せるが、その先は気を失って、少しだけ気を取り戻した後も痛みと貧血により意識が朦朧としていたため非常に曖昧だ。
いくつか声が聞こえてきたのは覚えている、吸血鬼の弟と、それから何故か栫井の声。
何故栫井があの場にいたのかはわからない、ひょっとして有事の時のためにこっそり跡をつけていたのだろうか?
その辺りに関してはまだ理解できるが、子供の声が消えたと同時に空が真っ暗になった怪現象はなんだったのだろうか?
それとそこまで考えて違和感がもう一つ。
吸血鬼が襲いかかってきたあの通りは、人通りがそこそこあった。
それなのに誰かが騒ぎパニックになっているという様子はなかったように思う。
吸血鬼に気を取られていたためあの時は特に気にしていなかったが、よく考えると不気味である。
しかしこの点に関しては自分がどれだけ考えても結論は出なそうだと蓮花は思考を放棄した。
蓮花は次に聞こえてきた声の内容を思い出す。
吸血鬼の弟が確か「逃げた」と言っていた声が聞こえた気がする、逃げたのは吸血鬼だろうか?
しかし、何故?
例えば吸血鬼とその弟があの後戦いになって、あの栫井という男も参戦して、吸血鬼が不利な状況になったとする。
だから吸血鬼は逃げたのだろうか?
しかし、やはりそれは違うような気がすると蓮花は考える。
吸血鬼は吸血鬼の弟にこう言ったらしい「やり残したことがあるから、それだけなんとかしたらまた来る」と。
ならば吸血鬼はすでにやり残したことを達成しているはずなのだ、そうでなければあの場に現れる理由はない。
吸血鬼があの場に現れたのは弟に殺されるためであるはずだ、だからこそ逃げるわけがない。
そこまで考えて蓮花は一つ意味不明なことを思い出す。
あの時吸血鬼は吸血鬼の弟にナイフで切り掛かった。
例えば切り掛かる相手が蓮花であったのであれば特になんの問題はない、最愛の弟の隣に蓮花のような駄目人間がいるのは吸血鬼にとって気に食わないことだろうから。
現に吸血鬼はあの後蓮花の首筋を噛みちぎろうとした、何故ナイフを使わなかったのかその理由はわからないがおそらく蓮花を殺すためにそうしたのだろう。
しかしあの時吸血鬼が切り掛かったのは彼の弟だ。
蓮花にとってそれは意味不明なことだった、だってあの吸血鬼は自分の弟のことを心の底から愛している、そんな愛しくて仕方がない存在に何故切り掛かる?
ひょっとして本当は自分が狙われていたが吸血鬼の弟がそれを防いだのでは、と蓮花は思い付いたがすぐに否定する。
吸血鬼が切り掛かってきた時の立ち位置を蓮花は思い出す。
あの時、吸血鬼と蓮花は数歩離れた位置に立っていた。
歩数で言うと蓮花の前に小股で一歩、横に大股で一歩くらいの位置に吸血鬼が立っていたような感じだ。
もし吸血鬼が蓮花に切り掛かってきて吸血鬼の弟がそれを防いだとしたのなら、吸血鬼の弟は自分の真正面、もしくは真横にいなければおかしい。
しかし、切り掛かられる前と後の蓮花と吸血鬼の弟の立ち位置に変化はなかった。
だからこそ、あれは明確に吸血鬼の弟を狙っての一撃だった。
何故、と蓮花は考え込むが、考えても意味がわからなかったのでそれは一旦おいておくことにした。
今はわからないことを考えるよりも、わかることを考えた方がいいはずだ、と思ったのである。
蓮花はその次に聞こえてきた会話を思い出す。
確かここで初めて栫井の声が聞こえてきたのだ、血がやばい、と言っていたような気がする。
その後で吸血鬼の弟が誰かを呼べと指示をしていたような気がする、聞こえてきた名前は確か『ぼん』と『すずらん』。
『ぼん』は確か昨日蓮花の傷を直したという子供のことだったはずだ、『すずらん』の方は知らないが治癒系の異能力者がもう一人いるという話だったので、その異能力者のことなのだろう。
その後で栫井らしき声が「いったんうちに」と言っていたような気がする、そしてその直後に吸血鬼の弟が彼に離れろ、と叫んでいた。
それが最後に蓮花が認識できた音だった。
その大声がやたらと傷に響いて呻きそうになったから、なんとか力を振り絞って左腕を噛んだところで意識が途切れている。
その先をなんとか思い出せないだろうかと蓮花は必死に記憶を探るが、何も思い出せなかった。
長々と考えてみたものの、わからないものはいくら考えたところでわからないのである。
ならばもう仕方ないと蓮花は諦める、聞けるようなら吸血鬼が目覚めた後に聞けばいい。
ならば次にわかっていることとわからないことをもう少し分けて、聞きたいことを今のうちにまとめておくべきだ、と蓮花は考える。
そう考えはしたのだが、蓮花の思考は彼女の意思に反して鈍っていく。
吸血鬼の心音と呼吸が聞こえてくる、抱きしめてくる身体は温かく、こんな意味不明な状況にも関わらず蓮花は妙な居心地の良さと共に安堵を覚えていた。
あの逃避行の最中も蓮花が悪夢に魘され、飛び起きて泣き叫んだ夜はいつもこうやって寝かしつけられていたのだ。
だからだろう。
ろくに思考がまとまらないまま、蓮花は眠ってしまった。
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