浮気者
ぎちぎちと、刀とナイフの刃が互いにせめぎ合い汚い音を立てる。
視線をちょうど外していた蓮花にはよくわからないが、現状から察するにどうも吸血鬼が彼の弟にナイフで斬りかかり、それを弟の方が刀で防いだ、という風に見える。
というかそういう風にしか見えない。
しかし何故、と蓮花は混乱する。
吸血鬼が彼の弟を刃を向けるわけがない、逆ならともかく吸血鬼の側から彼の弟に危害を加えるはずがない。
「吸血鬼さん、なにを……」
思わず呆然と呟いた蓮花の顔を吸血鬼はギロリと睨むだけだ。
「……超能力者の言うことなんかまともに聞いても仕方がない、それが自己評価に関わる事であるなら尚更……やはりこの女がお前の『やり残した事』か」
吸血鬼の弟が声を低めてそう問い掛けるが、吸血鬼はなにも答えなかった。
かわりにぶわりと彼の背後から大量の水が現れ、蛇のように形取られたそれが吸血鬼の弟に食らいつこうとする。
しかし迎え撃つ形で突如として出現した炎の龍がそれとぶつかり合い、相殺した。
「ひっ!?」
湿った熱気に蓮花が悲鳴を上げた直後、「邪魔だ」と言う声とともに蓮花の身体が空中に放り投げられた。
「ひいっ!!!?」
玩具の人形のように軽々と空中に投げ出された蓮花の思考速度が妙に早くなる。
――待って待って私超能力者だけど念動力とか瞬間移動とかできない、背中から石が生えるだけの凡人。
――ついでに運動とか全然できないからこんなの、普通に死ぬ。
嫌にスローモションになる視界に、本当に命の危険を感じた時って時間をゆっくり感じるようになるんだなと阿呆なことを考えつつ蓮花は恐怖に身を竦ませ目を固く瞑る。
この状況で、背から石をはやすだけの超能力者にできることなんて一つもなかった。
きっとこのまま受け身も取れずに無様に地に叩きつけられるのだろう、運が良くてもどこかしらは骨折するだろうし、打ちどころが悪ければ死ぬだろう。
はじめから生きるつもりがなかったから死ぬのは別にいいけど痛いのは嫌だと蓮花は思った。
しかし次の瞬間、蓮花が感じたのは想定していたよりもずっと軽いものだった。
「ぅ、え…………?」
瞑っていた目を恐る恐る開いた蓮花の目にうつったのは、吸血鬼の美しいかんばせだった。
横抱きされるような状態で受け止められた蓮花が口を開く前に吸血鬼は彼女を下ろした。
地に立たされた蓮花は何も言わない吸血鬼と向き合わされる。
何か言わなければと蓮花が顔を上げると、青い瞳と目があった。
その瞳は暗かった、顔には一切の表情がないのに、瞳にだけは濃い怒りと憎悪の色が見える。
その目に強く睨まれた蓮花は金縛りにあったかのように身動きが取れなくなる。
何も言えない蓮花の顔を睨みつけたまま吸血鬼は小さく何かを呟いた。
「…………え?」
なんと言ったのか聞き取れなかった蓮花の目の前で吸血鬼は口を大きく、まるで獣のように開いた。
歯並びの良い白い歯と鋭く鋭利な犬歯が見えて、これはどういうことだろうかと蓮花の思考が停止する。
ぐい、と襟元を掴まれ抱き締められた蓮花の青白い首筋に吸血鬼の犬歯が深々と突き刺さった。
牙が皮膚を貫く、その痛みを感じてから数秒掛けて蓮花はようやく吸血鬼に噛み付かれたのだと脳で理解する。
ただ噛み付くなんてやわな噛みつき方ではなかった、いっそ喰いちぎるとでも表現した方が正しいかもしれない。
それでも辛うじてくっついたままの肉と破れた血管から溢れ出す蓮花の血液がじゅるり、じゅるりと吸われていく。
舌が千切れかけの肉の隙間に入り込んで蠢き、牙が千切れかけの肉を完全に引きちぎろうとさらに深く噛み付いてくる。
そのおぞましい痛みに蓮花は悲鳴を上げた。
その悲鳴を抑えようと反射的にバネのように跳ね上がった左腕は吸血鬼に抱きつかれた状態である蓮花の口に届くことはなく、吸血鬼の頭を抱え込むような状態になった。
――いたい、こわい、なんで、なんで、なんで、なんで。
ただそれだけしか考えられない、痛みと恐怖、それから自分のことを傷つけることはあっても痛めつけ甚振ることはないだろうとある種の信頼を向けていた相手から裏切られたことへの絶望と困惑で蓮花の頭は塗り潰されていく。
そんな状態で、更なる激痛が蓮花を襲う。
「…………っ!!!!!!!!」
背から聞き慣れた肉を引き裂く音、はえてきた石によっていつものように背がズタボロになったその痛みによって蓮花は気を失った。
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