苦めのコーヒーが女子高生作家を異空間へ誘う事情

「ねぇ瑠海? どうして私がこんなこと言うか、本当に理解できてる?」


 文香さんは瑠海さんに包み込むような優しい声で、そう尋ねた。春日瑠海と言えば元国民的女優で、あの頃と何も変わらない愛嬌の良さを活かして国民的アイドルを続けている。あたしと同じ事務所の先輩アイドルではあるけど、知名度も人気も格が違っていて、比較することさえおこがましいほど。絵に描いたようなタレント性を駆使して、唯一無比のオーラを身に纏っているんだ。

 そんな瑠海さんが女優からアイドルに転身して、事務所としては売り上げが落ちたのだと社長は指摘する。だけどそんなこと言ってしまったら、あたしなんか一体どれだけ頑張ればいいのだろう。


「社長はどうせわたしをこき使って、豪遊三昧したいんじゃないですか〜?」

「また心にもないことを言ってくれちゃって。ほんと可愛くないわね」

「だって……。わたしのためだって言うのなら大きなお世話ですよ? わたしは好きでアイドルやってるんだもん」

「確かにその点を否定する気はないわ。瑠海はアイドルを楽しんでいる。そこへファンだって集まってきている。それはそれで成功だと思うのよ。だけど女優としての春日瑠海は、本当にこのままいなくなったままでいいのかしら?」

「それは……」

「瑠海は本当に、今のままでいいの?」


 そっか。社長は、女優春日瑠海の本音を聞き出したいんだ……。

 今は瑠海さんの心の奥の方で眠ってしまっている女優の春日瑠海。それを呼び起こしたくて、わざと意地悪なことを言っていたのかもしれない。今では伝説ともなっている春日瑠海の演技力。その魔力は人々を凍りつかせ、あたしも撮影現場で目の当たりにした時は完全に言葉を失うほどだった。

 事実、あたしから推理小説を奪ったのも、ここで眠っている春日瑠海じゃないかな。もしあたしが春日瑠海の魔力に心を奪われていなかったら、今でもあたしは無知なまま、推理小説を書き続けていたかもしれない。


 でも、瑠海さんの方はどうなんだろう? あたしと同じように、女優としての春日瑠海を奪うほどの何かがあって、今はただアイドルとしてのみ続けているのだとしたら……。


 そう思うのは、あたしもやはり、もやっとしているから。

 ヤスミや千尋さんに不器用と言われ続ける程度にはもがき続けていて、今を逃げるようにアイドルを続けているわけだからなのかな……。


「ねぇ文香さん……」

「結論は出たかしら?」


 優しい笑みを向ける文香さんに、瑠海さんはこくんと頷いて見せた。


「やっぱりわたしはまだ、女優には戻れそうもないかな」

「まだ……ね。でも、別に焦る必要も特にないわよ」

「…………」


 つまり瑠海さんは、いずれは女優に戻るということ……?


「大丈夫よ。だってどうせまだ天保火蝶さんは小説を書き上げてこないのだから」

「ブファッ!」


 せっかくいい話でまとまると思っていたのに、あたしはとどめを刺されたような気分になる。コーヒーを吹き出しそうになり、慌ててそれを堪えたんだ。


「どうしたの夏乃ちゃん? 急に気分悪そうにしてるけど」

「いや社長……?? 特にお構いなく!!!」

「何か私、夏乃ちゃんの気に触るようなこと言ったかしら?」

「いえいえとんでもございません! あたしは絶対大丈夫ですよ〜……」


 う、うん。明らかにおかしな生返事になってるのは、当然あたしも気づいてる。


「ということは社長。春日瑠海さんの女優復帰作は天保火蝶原作の推理ドラマを考えているということでしょうか?」


 追撃をかけるように、あたしをそう完全に晒し者にしたのは、悠斗だった。


「ええ。あのドラマが女優春日瑠海の終わりだったわけだから、始まりもその方がいいんじゃないかなって、私は思ってるけど」

「わたしもタイミングが合うのであれば、それでもいいかな。もっともそれだと天保火蝶さんが次回作を書けなければ、わたしの女優復活はいつまで経っても先延ばしってことになっちゃうかもだけどね〜」

「それだと天保火蝶、本当に責任重大ですね」


 悠斗はそう答えると、あたしのぺちゃんこになった顔をちらっと覗いてきた。

 何よ、文句あるの? と強がって、負けじと舌をぺろっと見せて応戦してみる。だけど悠斗にそれは逆効果だったようで、小さくくすっと笑われてしまった。どうやらあたしのただの強がりだったことが完全にバレてしまっていたようだ。そのままやり場を失うあたし。本当に悠斗は冷たい!

 でもそれだって、完全にあたしの自業自得なのかもしれないよね。あたしはブレンドコーヒーを口にする。それは悠斗の家の喫茶店で飲むのと完全一致する、かなり苦めのコーヒーだった。


「あ、あの、春日瑠海さんは本当にあた……天保火蝶ごときの次回作を、本気で待っていたりするのでしょうか?」


 気がつくと国民的女優の春日瑠海さんに、そんなことを聞いてしまっていた。

 そんな馬鹿のことあるのかなって、本気でそう思えてしまったからだろう。だって推理作家天保火蝶を殺してしまったのは、他ならぬ春日瑠海さんだからだ。あんな青二才が描いたような少女を、国民的女優が演じるなんておこがましいんだって、国民的女優の春日瑠海だったら、より濃厚で、複雑な海のように深いメインヒロインでないと、割に合わないんだって……。


 だけど瑠海さんは本当に何も考えずに、こう答えてきたんだ。


「もちろんだよ。あんなに子供っぽくて可愛らしい天川ひかりちゃん、演じてて本当に楽しかったんだもん。悪戯好きで、一度スイッチが入ると人が変わったかのような推理力を働かせてさ〜」


 美しい笑みと共に……。

 一年前のあの日、撮影現場で見た女優の笑顔とも違っていて、テレビで観ていた国民的女優の眼差しとも違っていた。だけど、なんでもないはずの瑠海さんのオーラは、いつの間にかあたしを無重力空間へと誘い出し、そこへぽつんとあたしを配置する。身動きが取れなくなったあたしは、そのままぷかぷかと浮かぶことしかできなくて……。


「何よそれ。まるで瑠海、あなたそのものじゃない?」

「って社長〜! わたしがせっかくいい話でまとめようとしていたのに、そんな風に落としてくるの、少しズルくないですか〜!??」


 そんな社長と瑠海さんの会話さえも、あたしの左耳へ入ってくると、そのまま右耳から出ていってしまう。目の前がすっと真っ暗になってしまったかのようで、あたしは異空間の世界へと飛ばされてしまったかのようだった。


「夏乃ちゃん。……大丈夫?」


 そんな暗黒の世界に、千尋さんの声がすっと伸びてきた。あたしはその光を確認すると、慌てて手を伸ばす。


「……あ、はい。大丈夫ですよ」


 なんとか掴んだ千尋さんの手はやはり温かくて、その手の先に薄らと雪乃の姿が映ったように感じたんだ。雪の中、あたしが本当に殺してしまったもう一人の自分。自分の描く小説の中で雪乃を見殺しにしたはずなのに、それでも雪乃は……。


 ……ひょっとすると、千尋さんに声をかけられるまでの一瞬の間、あたしは天保火蝶を探す闇の旅へと、出かけていたのかもしれないね。

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