アイドルが空気を読む事情

「それではまずは一曲目! あたしたちのデビュー曲!!」

「『Green generation』聴いてください」

「「レディー、ゴー!!」」


 夏乃と愛花、二人の掛け声とともに、デビュー曲『Green generation』のイントロが流れ始める。水彩画を目の前に描き出したようなメロディーは、御咲がいないこの状況から観客を落ち着かせるのに十分な力を秘めているように感じられた。

 今日の御咲のパートに関しては、夏乃と愛花の二人で半々にして、それぞれ誰が歌うか決めていたらしい。昨日は御咲がライブの途中で離脱してまったため、御咲離脱後は御咲のパート全てをやむなく夏乃が歌っていた。元々『Green eyes monsters』内の取り決めとして、非常事態があっても対処できるよう、自分のパート以外も確実に歌えることという取り決めをしていたらしい。さすがは有理紗先生の指導と、夏乃の度胸満点の機転の高さで、昨日の非常事態を乗り切っていたというわけだ。


 曲は幻想的なイントロから、Aパートへと進んでいく。いつもなら、夏乃、御咲、愛花という順で歌い手が変わっていくわけだが、最初の御咲パートは夏乃が担当することになったようだ。いつもより少し長めになったパートを、昨日同様見事に歌い上げる夏乃。落ち着いた力強い歌唱力で、愛花へとバトンを渡していった。

 愛花の最初のパートは元から愛花のパート部だ。だからいつも通り愛花が歌えれば……というのはさすがに心配しすぎというものだろう。愛花だってあれでも一応プロなんだから、問題なく歌えて当たり前というやつだった。そこもやはり、いつも通りに、淡々と……

 ……淡々と???


「まずいなあれは」


 そう溢していたのは舞台袖にやって来ていた有理紗先生だった。やや冷たい表情で愛花の歌唱を伺っているが、実は俺も有理紗先生と同じ感想を抱いていた。


「あの子、どうしちゃったの? いつもの力強さがないわ」

「ああ。昨日は普通に歌えていたのにな。今日は覇気が感じられない」


 どうやら有理紗先生や俺だけではなく、御咲までもが同じものを感じ取っていたらしい。となると愛花の歌の微妙な差というのは勘違いでもなんでもなく、実際にいつもとは異なるものが現れてしまっているということだ。昨日は御咲離脱後もいつも通り歌えていたくせに、今日は何があったというのだろう。ほんの数秒の愛花のパートを聴き取っただけで、有理紗先生と御咲、そして俺は一抹の不安を同時に感じ取っていたということになる。


「あいつ、さては空気を読みやがったな」

「空気……?」


 曲は一番のサビ部へと進む中、有理紗先生はそう分析していた。そういえばデビューライブの時も有理紗先生は全く同じ言葉を口にしていた気がする。確か愛花だけは有理紗先生がほぼ何も教えることなく、勝手にあの歌唱力になった……と。つまりあいつは、周囲の環境、空気というやつを読みながら、それに合わせて歌っているだけということか。


「あの子、私がいないことで観客の空気がいつもと違うことに気づいて、それでいつも通りに歌えないってこと?」


 パイプ椅子に座ったままの御咲は、愕然とするようにステージの上の状況を見つめている。その顔はまるで自分を責めているようにも見えた。そんなの愛花の性格のせいだというのに、御咲にはどこにも罪はないというのに、目の前にあるもの何もかもを吸い込んでしまいそうなブラックホールを眺めているかのように、漆黒の瞳を愛花の方へと向けていた。


 事件が起きたのは一番のサビ部が終わり、二番の出だしのAパートに入った時だった。いつもなら御咲が歌う部分を、今度は夏乃ではなく、愛花が歌うことになるはずだった。


「…………」


 Aパートに入っても、まるでカラオケのようにメロディーだけが流れる。

 愛花は自分が歌うべき御咲のパートを、完全に忘れてしまったのだ。

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