特別な人。

ピコピコ

特別な人。

 見慣れた景色……というわけでもない。今までにこの道を通ったのは、恐らくニ回や三回程度だろう。

 今も昔も、この道を進む時は緊張を伴っている。

 この道は……特別だったのだ。




 もう20年近く経つだろうか。僕は小学校のクラスメイトの、とある女の子が好きだった。

 だった……とは言うが、それが過去形に変わったのは本当につい最近の事だ。情けない話だが、大学を卒業し社会人になってまで、僕は彼女をずっと想っていたのだ。

 彼女もそれを知ってるし、僕は何度も振られている。

 諦めなければいつか振り向いてくれるはず、なんて一歩間違えばストーカーになりかねない危険思想に思われがちだが、勇気と行動力の無さが幸いして、むしろ気の知れた友人という関係に落ち着いてしまっていた。

 向こうは勿論、恋愛感情なんて皆無だっただろう。

 僕はやっぱりそれ以上の関係になりたかったけど、お互い仕事も始まって、その内連絡を取り合う事すら無くなっていったのだ。


 そんな彼女から結婚の報告が届いたのは、社会人になって二、三年目くらいの頃だった。


 ショックだったのは、僕は彼女を何も知らなかったんだと思い知らされた事。

 当たり前の話なのだ。僕とは付き合っていないのだから。そういう関係の誰かが居るし、この年齢になれば結婚だってする。僕は、彼女が過ごす日々の蚊帳の外に居たのだと、そんな当たり前な事に初めて気付いて愕然としたのだ。

 その時、彼女の事が好きだと……もう言えない気がした。

 何も頑張らなかった僕には、彼女の結婚に傷心する資格すら無いような気がして、精一杯伝えたのだ。

 「おめでとう!」と。



 それからまた何年か過ぎた、年末。

 さすがに結婚した彼女と連絡を取り合う様な事はほとんど無くなったが、彼女には去年娘が生まれ、幸せに暮らしていると聞いていた。それに比べて俺は結婚もほど遠い。

 当然だ、長い間ずっと一人を想っていたのだ。そう簡単に新しい恋など出来るか。

 などと胸中に溜め込んだ愚痴をコーヒーで濁しつつ、車を運転する。今日は実家に帰省していた。毎年の恒例である。

 両親はいつも温かく迎えてくれるが、やはり結婚を仄めかされる。適当に誤魔化して会話を流すのも、正直年々しんどくなってきた。

 そして毎回、彼女の話が出てくるのだ。

 僕と彼女の関係については知らないはずだが、母親同士の仲が良いらしい。求めてもいない情報が提供される。

「あ、そういえばね……」

 いつもの様に何気無く飛び出た母親の発言に、僕は耳を疑った。


 そして思考が停止した。


 何て事を、無造作に、無遠慮に、口にするのだろう。

 続けて彼女も同様に実家に帰省していると知り、僕は無我夢中で家を飛び出し、車に乗り込んでいた。

 薄暗くなった田舎道を、加速して進んでいく。

 向かって、どうするつもりだろう。

 そんな事を考えながらも、アクセルを踏む足は緩まなかった。

 今も昔も、この道を進む時は緊張を伴っている。



 小学校には東門と西門があった。下校時、僕と彼女はそこからもう別れていた。だから基本的にあっち側の道は歩く機会が無い。

 その道は、彼女の家に向かう特別な道なのだ。

 小学生の時、彼女の家に遊びに行った事があり、一緒に歩いて下校した。

 中学生の時、授業のノートを借りに、並んで自転車を漕いで下校した。

 高校生の時、自転車がパンクしたと言うので、バイクの後ろに乗せて家まで送った。

 そして今は、車を運転して同じ道を走る。

 この景色が未だにまだ見慣れないのは、経過した年数に比べて、利用した回数が少ないからか。あの頃とすっかり変わってしまったからか。

 もしくは……景色なんて、全然見ていなかったからか。



 彼女の家に着いた。

 突然の訪問なのに、彼女の両親は笑顔で迎えてくれた。僕の事、覚えてくれていたみたいだ。

 彼女は部屋に居ると言われ、案内された。そういえば旦那さんや子供も居るんだよな、と今更焦る。何をどう説明すればいいんだ?

 そもそも、僕はここに何をしに来たんだ。

 頭の整理が追いつかないまま部屋に着く。そして、ドアを開けた。

 その瞬間、母親の発言がフラッシュバックする。


「〇〇ちゃん、目が見えなくなっちゃったんだって」


 彼女は……。

「…………あ、久しぶり」

 可愛かった。

 何年も連絡を取り合うだけの関係で、実際に会っていなかったから。

「……久しぶり」

 こんなに綺麗になっているなんて、想像していなかった。

 一気に顔が熱くなる。そんな自分の反応に動揺して、まともに彼女を見る事が出来なかった。

 違う。好きじゃない。だって彼女は結婚してる。旦那さんだって居るし、子供だっている。

 自分から赴いておいて、何をしてるんだ、僕は。

「あ、えと。ありがとう。その、ごめんね」

 ふと気付く。彼女は明後日の方角を向いている。たまにこっちを向いても目の焦点が合わない。

 胸がサッと冷たくなるのと同時に、怒りで胃が痛くなる不思議な感覚を味わった。吐きそうだった。

 なんで、と叫びたくなる声を押し殺そうとすると、今度は涙が溢れそうになり目が熱くなる。

 おかしくなりそうだった。足が震えていた。

「昔からそうだけど、相変わらず……言葉足らずだな」

 必死に平静を装って喋る。装えているだろうか。

「あ。来てくれてありがとうって意味と……困らせちゃってごめんねって事」

「なんで、」

 なんで……そっちが謝るんだよ。

 ダメだ、何も言えない。何を話せばいいか分からない。僕は昔から全然変わってない。

「なんかね、病気みたいで。去年くらいからどんどん視力が落ちていってさ。今はもう明るい暗い程度の事しか分からなくて」

「あ、いや。なんでってそういう意味じゃ……」

 こんなにつらい事を説明させてしまった。

 涙を拭き取り、彼女に近付く。何年振りかの再会で、情けないままで居られるか。

 僕はここに、世間話をしに来たのだ。ずっと好きだった彼女と、念願の再会を果たしに来たのだ。

 たったそれだけの事だ。

「そういえば、旦那さんと子供は? 出掛けてるの?」

「ううん、今回は私だけ帰ってきたの。両親に迎えに来てもらって。……ほら、目もこんなだし。気を遣わせちゃうかなって思って」

「そう、なんだ。……仲良くやってるの?」

「勿論。申し訳ないくらい色々やってくれて、本当に有難いよ。子供の事も私の事も。あの人じゃなかったら、ダメだったと思う」

「へぇ」

 ……僕はもう彼女の事を好きではない。彼女もきっとそう思っている。だからこんな風に平気で話せるのだろう。

 僕だったら、ダメだったと言う事だ。

 まぁずっと振られてたわけだし、当然と言えば当然だけど。

「でも」

 彼女がこっちを向く。だけど……目線は合わない。誰も居ない方を焦点が彷徨い、そこに向けて言った。

「大人になった君を見たかったな。君は、今どんな君になってるんだろう」

 優しい音色が、しんみりと胸に浸透していく。

「君が幸せでありますように」

 目を閉じて、深く深呼吸をした。涙を抑える為に。嗚咽を漏らさない為に。

 僕の額を、彼女の額に当てる。すると彼女も目を閉じて、少しだけ微笑んだ。

「人妻にこんな事していいのかなぁ?」

「脳に直接、色んな事が伝わればいいのに」

 僕のこの、悲しみも喜びも、怒りも願いも、どうしようもない感情も。彼女が隠している不安も、辛さでさえも。

「伝えたい事はちゃんと口にしてるよ。それに伝えたくない事だって、その方が良い事だってあるのですよ」

「部屋に入った時、可愛くて可愛くて、つい言葉が詰まってしまった事とか」

 すると照れたのかパッと赤くなり、咄嗟に顔を引く彼女。それを追いかける様に額を当て続ける僕。

「こら、ダメだよ。そもそもまともに化粧もしてないんだから。髪も適当だし」

「だからか。なんか中学生の時の面影を凄く感じて、見惚れちゃったよ、ほんとに」

 遅すぎる行動力。今更こんなに頑張っても、もう意味が無い事くらい分かってる。

 こういう想いを、言葉を、あの頃からちゃんと伝えていれば良かったと思った。そういう時間は、きっとたくさんあったはずなのに。

 だけどいいのだ。今強く想うのだから。

 好きじゃなくなったりするわけない。ずっとずっと好きだったし、これからもずっと好きだ。

 彼女は、僕にとってそんな存在なのだ。

「……君と話していると、なんだか高校生くらいに戻った気分になるよ。というか、今頭に浮かんでる姿は高校生の時の君だしね。まぁあの頃はこんなに積極的じゃなかったけど」

 呟く様に優しく、過去を懐かしむ彼女。

 その頃、もっと積極的だったら……。

 今が、高校生だったら……。

「今、お互い高校生に戻ってたら、もしかして、許されるかな?」

 額同士を付けたまま、顔の角度を変える。それだけで彼女は察した様子で、両手を僕の胸に押し当てた。

「こら」

「大丈夫。僕達は今高校生だから」

「…………ずるいよ」

 音の出口を塞いだ。

 どちらのものか分からない涙が、しょっぱさを残して通過する。

 我ながら、最低だった。

 そしてそこからもう、涙が溢れて止まらなかった。嗚咽を隠す事すら出来なくなっていた。

 どんな理由による涙なのか、自分でも分からなかったけど、その時一つ確かな想いがあったのだ。

 この情けない泣き顔を彼女に見て欲しかった。

 カッコ悪いって、言って欲しかった。

 バカにして、笑って欲しかった。

 そうしたら僕も、負けじと言い返すのだ。

 「お前だって同じだぞ」って。



 帰り道。

 窓の外を眺めながら、ゆっくりとアクセルを踏む。田舎の冬の夜空は星が綺麗だ。一つ一つが力強く、煌々と輝いている。

 この特別な道を、もう二度と通る事は無いだろう。だからこそ、記憶に鮮明に残しておきたい。竹林の奥の大きな木も。見晴らしの良い丘の景色も。

 彼女はきっと幸せだ。今も、そしてこれからも。

 そこに僕は必要ない。ならば僕だって、勝手に幸せになってやる。

 特別な道は、通らなくなったって特別なままだ。

 彼女だって、好きじゃなくなっても特別なままだ。ずっといつまでも、いつまでも特別だ。


 もうすぐ年が明ける。

 来年こそは結婚しようと、毎年恒例の抱負を掲げる。

 そして報告しよう。

 彼女に「おめでとう」と言わせてやるのだ。

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