第1話 風間さんと風の翼【3】
意識が体から離れる。幽体離脱の原理を応用したというそれが始まった。風間さんから重力の感覚が失われる。次々と感覚が消えていき、それが終わると頭の上に光り輝く入り口が見えてくる。一歩踏み出す。
ゲームのスタート画面に相当するマップ。風間さんが入ると続いて他の三人が現れる。
「よし、全員出てきた。」
一番最後にやって来た七瀬が言う。
「じゃあ、さっそくだけど、ローカルサーバー建てたから入ってくれる?」
ここ、と示されたスポーンポイントに風間さんはアクセスする。飛び出したのは、天井の高い格納庫だった。
「ここは?」
「格納庫のポイントね。」芽衣子の声が聞こえた。今開けるから、まってて、と続けて数秒後、シャッターが動き出し、天井の明かりが煌めいた。そこにいたのは……
「あ、この飛行機は……!!」
部活紹介の時に飛んでいた飛行機がそこで翼を休めていた。
「F/A-18D艦上戦闘機。ウチの部活で使っている機体よ。」
それが2機。風間さんのいる格納庫に止まっている。
「随分古い機体だな。映画で見たよ。出来たのは半世紀前だろ。」
滝の突っ込みに「シュミュレーターだからね。」七瀬は答える。「今のところ再現されている機体は2010年代前半、それ以上は機密がうるさいので作ろうにも作れません。というわけ。」
「戦闘機の開発スパンも長くなって中の改良が主って言うのもあるし、ここから先の年代の機体はAI機体以外停滞しているのよね。」
そうかあ、やっぱり大変だな。と返す滝の袖を引っ張って風間さんは言って言うことが判らないから教えてと問う。七瀬と芽衣子が説明する。機体をフル再現するためには軍事機密が邪魔していると。風間さんは驚いた。え?これ、本物と同じなんですか。
それを聞いた先輩二人は我が意を得たり!という顔をした。滝はそれに気づいて、底なし沼の主ってこんな顔しているんだろうなあと、そんなことを考えた。
「そう、このゲーム、いや「シミュレーター」が売りとしているのが、再現度の高さ。これは一機で百機落とすようなゲームじゃないの。」
再現度?と滝は聞くと芽衣子の例えが返ってくる。前世紀には先四半世紀の後発作品すら凌駕する再現度の作品を会社の滅亡と引き換えに生み出した事もある。という話を聞いて滝はその異常性を理解した。底なし沼は、マリアナ海溝より深い。きっとリアル・フィール・トレーシング(五感再現)が来たときは邪教のごとく盛り上がったのだろうということは想像に難くなかった。
「じゃあ、これから体験入部フライトを始めるわ。じゃあ、滝君は私の方に、風間さんは七瀬の機体に。」
返事をする。七瀬が手招きする。もう彼女は前席のコックピットに収まっている。覗いてみると現代の機体よりやけに多いトルグスイッチ、つまみ、そして小ぶりなアナログ画面。風間さんはスイッチの一つに触ってみる。リアル・フィール・トレーシングによる金属の触感は冷たかった。動かすと、重い。
「じゃあ、始めるわよ。」芽衣子が格納庫を開ける選択肢を押すと七瀬は迷うことなくスイッチに手を伸ばす。機体の電源が付く、ピーピーと電子音がする。そして、後ろのほうから大きな音、ジェットエンジンだ。それが二つ。
「結構音、大きいから、後ろ、入ちゃいなさい。」
後ろの席へ。おいてあったヘルメットを被ってOK、と伝えると上に跳ね上がっていたキャノピーがゆっくりと閉まった。
『少し待ってね。手間がかかるから。』
それから少しの間、風間さんには何をどう操作しているのかわからないが、とにかく手間がかかる重要なこと(と思われること)がずっと行われていた。そしてそれからいくつかの警報音の後、小さな声で「出来た」という声を聴いた。
『タキシング、先に入るよ。』
七瀬の了解を待つまでもなく芽衣子は滑走路に進出。風間さんの機体の前を滝を乗せた機体が通り過ぎていく。
『準備はいい?』
『あ、はい。大丈夫です。』
やがて甲高い音と共にまぎれて、よし、という七瀬の声、機体はのろのろと動き出す。かまぼこ型の建物から機体を前進させる。芽衣子の機体を追って滑走路端へ。
「広い……飛行場みたい……。」
「そりゃあ、飛行場だもの。」
即刻突っ込まれた風間さん。はあ、そうだったと笑った。七瀬は芽衣子とせわしくやり取りしながら誘導路をくねくねと進み、滑走路へ着陸する。
『芽衣子~おっけーだよー。』
『分かった。十秒おいて上がってきて。』
りょうかーい、と七瀬は返した。それから大きく十までの数字を数え、それを素数で数え終えた後、新幹線をさらに倍にしたような。いやそれ以上の加速が始まる。それから、急に「下」の方向が変わった。
『今、離陸したわ。ここ、トビリシを離陸してクタイシ空港まで飛ぶわよ。』
『早い!十秒なんて経っていないじゃない。』
『えー?ちゃんと数えたよ。』
二人の会話をよそに風間さんはキャノピーに頭をくっつけて流れていく地面を見ていた。まだなんとも思わない。少し高度があるせいか、地上の流れは新幹線くらいだ。
が、それは少しづつ流れていく速度を落としながら小さくなっていく。自身が猛スピードで巨大化していくような錯覚、上を見ると、低層の雲が手が届くぐらいの距離まで降りてきて、やがてそれはキャノピーをかすり、下に降りていく。それなりに濃い雲が今や上下を埋め尽くしていた。画面の一つに前席のHUDと同じものが移したされている、数字は、一万五千を丁度超えた所だった。
さらになお高度を上げる飛行機の中で何とも言えない高揚感が湧き出てきた。風間さんはそれを言葉にすることが出来なかった。今まで三次元の世界で生きていたと思っていたが、限りなく二次元に近い三次元だった。
高さ、というものをこれだけ意識したことがあっただろうか。空、と聞いて、あの雲の高さの階層を思い浮かべたことがあったか、低い雲の向こう側を考えたことがあったか。
確かにファンタジー系のゲームで空のステージは入ったことがある。だが、それとは比較にならない広さと深さがそこにあった。直ぐそばに広がっていながら全く知らなかった世界に迷い込んだ。その発見に興奮した風間さんはいつしか夢中で外を眺めていた。
『今いる地点が二万五千フィート、大体八千メートル。っておーい、聞いてる?』
七瀬が後ろを振り返る。依然風間さんは窓におでこをつけて外を見ていた。いや、見とれているのだ。時よりわあ、という小さな歓声が上がる。
『そう。そんなに物珍しいのね。この光景が。』
『こんな高さ、他じゃ飛んだことなんてないです。』
『でも。のっぺりしてない?余所のゲームの飛行機械やら魔法なんか、実際精々数百メートルだけど、だからこそ、回りが流れていくのが判る。それにくらべてこいつは……』
実感としての「飛ぶ」っていう要素が随分と抜け落ちている。そんな七瀬の指摘に風間さんは頭を振って答えた。
『でも、こんなに遠くまで世界が広がっているのを見るのは。始めてです。』
答える風間さんの視線の先……北側……は雄大なコーカサス山脈が天を衝かんと伸びていた。そして、その反対側には無限の平野ば続いて、それはやがて無限遠の遠くで空と一体になる形で青いぼんやりした地平線の彼方へ消えていっていた。
『旨く言い表せないけど、なんというか……開放感というか……』
内側から湧き出てくる感情を言葉で整理しようとした。七色に輝く感動を言葉に変えようと風間さんは四苦八苦する。そして、出てきたのはありきたりな『すごく、広くて……すっごく、気持ちいいです。』という言葉だった。
『そう。気に入ってくれて良かったわ。』
七瀬はそう返すとありがとうございます。と風間さんは返答して、再び視線を外に戻した。未だ雲がかかったコーカサスの山々は朝霜の乗った芝のように白と緑の色合いが真昼の太陽に輝いていた。そして、一瞬上を見上げる。そこにはほとんど雲はない。少し青みが強くなった空が無限に広がっていた。その様子をバッグミラーで確認した七瀬は、先ほどの言葉のニュアンスと合わせて釣り堀で浮きが浮き沈みすするのを見ているような気分になっていた。これはもしや興味ありか?だが、まだ足りない。予定通りあと一押し必要だ。
『じゃあ七瀬、打ち合わせたとおりね。』
突然の芽衣子からの掛け声に『はーい』と答えるなり七瀬は少し進路をずらすと一気にスロットルを押し上げた。押し付けられるような加速を感じた風間さんは何事かと前をのぞき込み、何事ですかと声をかける。
『馬鹿と煙は高いところが好き……っていうじゃない?貴女も、馬鹿の会員予備軍じゃないかしら?』
何事か、それそのものである七瀬はすでにこちらに視線を向けて笑っていた。いままで知らなかっただけで、こういうの、好きでしょ。と、そう徒っぽい笑顔で暗に言われた時には、風間さんは図星だと心の中で思っている自分を発見し始めていた。
『だったら‥‥徹底的に馬鹿になってみる?』
それと並行してがくん、がくん、がくん……と、何かが外れる音がした。それは増槽を外す音だったが、風間さんには意図的に起こされたものであるという以外、直ぐには分からなかった。
『今いるのは三万フィート、代替メートル換算で一万メートル。……でも今日は特別に無理にもうちょっと上に行ってみるよ。』
機体はさらに速度を増していく。風間さんが意味を捕らえ損ねて、それをなんとか理解しようと進んでいる間も機体は猛スピードで飛び続けている。目の前のモニターに移された飛行計器の左で数字が動いている…390…400…410…420……
『操縦稈引き上げるよ。』
『そうすると……どうなるんですか……?』
『ロケットみたいになる。』
地面の方向が90度替わった。そして、機体は一気に上昇する。太陽の輝きはみるみるうちにか細くなり天井を覆っていた最後のベール……高層の雲……をあっという間に突き抜ける。水平儀は80度を示していた。
そして、十秒ぐらいたっただろうか。
もう彼女の上に雲はなかった。
目の前には宇宙への入り口が青黒く視界一杯に広がっていて、とうとう太陽はそのダークブルーの中に輝く豆電球と化していた。
あたりを見回す。地上は高低差が見分けられず、地図でもみているかのようにのっぺりとした大地が壁のようにどこまでも広まっていて、そして空は宇宙から見たように白く色を帯び、地平線の果ては青白く光り輝いていた。
『高度六万フィート超え、地上からは20キロ。』
風間さんは一瞬やって来た静止と無重力の落下の中で言葉を返してくることはなかった。それは感想を抱いていないという意味ではない。背後の緑、青白い地平、ダークブルーの世界に目まぐるしく視線の写している。そこで七瀬は、ああ間違いない、やっぱりこいつは「こちら側だね」と理解した。ならば、引き込むまでだ。
トドメの一押しとばかりに七瀬は風間さんにこう告げた。
『わが飛行部へようこそ、新しい大馬鹿野郎。』
無重力の浮遊感の中で風間さんは、まだ優柔不断な声で、はい、と返答した。それを確認した七瀬は、やっぱりもう一押ししてみるか。と考えながら窓からずっと外を見ていた。
それから2機はそのまま高度を下げ、再び2万フィートでの巡航に戻り、クタイシ上空にたどり着く。
『ねえ、芽衣子、このまま降ろすの?時間もある、燃料もある。』
何を言っているのかすぐに分かった芽衣子は、『やる?まだ体験入部なのに振り回すの?』と一応効いてくる。七瀬はそれに対して明瞭な答えを持っていた。
『でも、これを先に見せないと機体についても、飛行部の活動内容も嘘ついてることになるわ。』
OK、と返答があった。
『じゃあ私は北から、あなたは南ね。400ノットで交差したらスタート。射撃はなし、後ろについたら三つ数える。いいわね。』
勿論。の回答と共に七瀬は後ろで突然のことで驚いている風間さんに微笑んだ。
『さて、新人さん?良かったわね。戦闘機のもう一つの、いや本来の姿、身を持って体験できるわ。』
へ?という風間さんの返事を『舌咬まないようにね。』という言葉で遮ると、風間さんの許可なく機体をバンクさせた。
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