2 汽車に乗ります。
久しぶりに外に出たからか、深雪は日の光を眩しく感じていた。くらくらする。
「大丈夫……?」
「は、はい……」
深雪がふらふらと歩いていると、崇正が肩を掴み、その体を支えた。
「なんなら、家まで抱っこしてあげようか?」
「い、いやそれは……」
さすがに恥ずかしいと思い、深雪は首をぶんぶんと横に振った。でも、その言葉は嬉しいことは嬉しくて、だから思わず狐耳がぴこぴこ動く。すると、ふいに崇正の視線が深雪の頭上に移った。
「……もふもふ」
崇正は何かを呟く。しかし、それはあまりに小さい呟きであったので、深雪にはよく聞こえなかった。
「あの……今なんと?」
「いや、なんでもないよ。それより、耳は少し目立つね。他の人に見られると、嫌な視線を感じるかも知れない」
言われて、深雪ははっとした。
――そうだ。わたしは狐憑きだ。他人にこの耳を見られたら、絶対に嫌な視線が来る。すれ違い様等に、忌避を露わにした言葉も言われてしまうかも知れない。
深雪は取り敢えず、腕を上げて着物の裾で隠してみることにした。
一応は隠れた。
しかし、ずっと腕を上げるこの態勢で歩くのはキツい。これでは、そのうち腕が疲れて下がって来てしまう。
「そんなことしなくても大丈夫だよ」
深雪が「むむむ」と眉をひそめていると、崇正が薄く笑って、自らの被っていた帽子を深雪の頭の上に置く。男性用だからか、帽子は深雪にとっては幾分か大きくて、そのお陰で耳が普通に隠れた。
「軍帽だから、あんまりお洒落じゃないけどね」
「ありがとうございます……」
深雪は、お礼を言いながら帽子のツバを掴むと、すすすっと下げる。すると、帽子についていた匂いが降りて来て鼻先をくすぐられた。
柔らかくて安心するような、そんな匂い。これは帽子のというよりも……崇正の匂いだ。
今もすぐ近くにいるし、座敷牢から連れ出される時には抱き上げられもしたので、深雪は崇正の匂いをもう知っている。
「……どうしかしたの?」
「その、匂いが……」
「え゛っ、も、もしかして臭かった……?」
「そうではなくて、なんだか、落ち着くような匂いで……」
深雪の言葉を受けた崇正は、頬を真っ赤にすると人差し指で掻いた。
柔らかくてどこか中性的ではあるものの、確かに大人の男の顔つきの崇正のそんな仕草を見て、深雪は、なんだか「可愛いな」と思った。
でも、男の人に「可愛い」だなんて、失礼なことを思ってしまったなとすぐに反省した。
「……」
崇正の隣を歩きながら、深雪はなんとなく、会話の勘を取り戻すという意味もあって、何か良い感じの言葉を言ってみようと思い頭の中を捻る。
深雪はそこでふと、男の人は男らしいと言われるのが好きだ、と以前に本で見たことがあったのを思い出した。
座敷牢時代、文でのやり取りが主体であった為に、文字を学ぶ為の勉強道具を与えられ、それに伴って望めば本くらいは貰うことが出来た。
ゆえに本で得た知識はそこそこあったりする。ので、本で見たその言葉を言ってみることにした。
「……旦那さまはとても男らしいです」
こう言えば、喜んでくれるかなと深雪は思った……のだけど。
崇正はただただ困惑した表情でキョトンとした。
あれおかしいな、と深雪が戸惑うと、
「……脈絡なく、なぜそんなことを言ったのかよく分からないけれど……お世辞のつもりなら、それは別にいらないよ。おしとやかにもしなくて大丈夫。あの頃と同じ感じでいいよ」
「あの頃……」
あの頃と言われて、深雪は記憶を振り返る。
そういえば、わたし、小さいころ旦那さまとどんな風に話をしていたのだろうか、と。
大切な言葉や、おおまかな会話の内容とか、その時に思った気持ちは確かに覚えている。けれども、不思議なことに、自分自身がどういう雰囲気の子どもであったかが抜け落ちていた。
崇正曰くは、小さい頃の深雪はおしとやかでは無かったようだけれど……。
実際を述べるのならば、崇正のいうことは当たっている。小さい頃の深雪は天真爛漫で活発。そこまで大人しい子では無かった。抜け穴を使って外に出ていたくらいなのだから、当然だ。
ただ、成長して部屋の穴を通れなくなって以降、ずっと座敷牢で鬱屈した毎日を過ごし続けたせいで、気が付けば、深雪はかつての自分自身の性格の認識があやふやになってしまっていた。
記憶はしっかりしているのに、自分がどうであったかという問いに答えが出せずにいるのは、そのせいであった。
「思い出してくれた?」
「いえ、全然……」
と、深雪が首を横に振ると、崇正が急に真顔になった。
「そ、そうなんだ」
どうしてそんな表情になるんだろうか。深雪は首を傾げつつ、そういえば、連れ出してくれた事へのお礼をまだ言っていなかったな、と気づく。
「……ところで、最後に旦那さまが言った『必ず連れ出しに来る』という言葉を、わたしは覚えていました。ずっと期待していました。……だから、ありがとうございます」
「え……? お、覚えてる? いま全然覚えていないって言わなかった……?」
「? それは、わたし自身がどういう子どもであったか、というのがおぼろげだというだけで、旦那さまのことはしっかり覚えていますが」
「な、なるほど……。忘れられていなくて良かったよ」
☆
「すごいですね……」
蒸気を出しながら、一定の速度で走る箱を見て、深雪は驚いた。
「あれはね、”汽車”っていうんだ」
「……汽車?」
「そうだよ。僕の家は帝都にあるから、あれに乗って行くんだ」
崇正の家は都会にあるようだ。
だから、この”汽車”とやらに乗って、向かうらしい。
「乗っていいのですか?」
「もちろん。というか、乗らないと帰れないよ。歩いて行ったら何日掛かることやら……」
「やった!」
乗り物に乗るのは始めてだ。なんだか楽しそうだ。と、深雪がワクワクしていると、崇正も嬉しそうな表情を見せた。
深雪は、てくてくと崇正の後ろについて行きながら、汽車の中に入る。
それから席に座ろうとして――
――何やら、汽車の中をうろつく初老の車掌と崇正が顔見知りらしいことが分かって、立ち話を始めた。
「浅葱少尉、久しぶりだな」
「伊佐中尉……ですか? お久しぶりですね。定年退役された後、どうされたのかと思っていましたが、車掌になっていたのですか」
「まぁな。車掌だと仕事で国中を回れる。金を貰いながら旅が出来るのが良くてな。給金や肩書を見れば退役軍人用の斡旋職の方が良かったが、それは蹴って自分で探してこれを選んだ。……それで、浅葱少尉どの、こんな地方に一体何の御用で?」
「妻を迎えに来たんですよ」
「……ほう?」
車掌は深雪を見た。
「……なんとも目を引く白さだな。陶器のようだ」
言われて、深雪は周りの人と自分の肌を見比べた。確かに深雪の肌は白い。ずっと家の中にいて、日の光に当たらなかったせいだ。
深雪は、自分の肌が個人的にはあまり好きではない。白すぎるとなんだか病人みたいに見えるから。
しかし、
「いや、雪のよう、といった方が近いかも知れないな」
車掌は白い肌に対して良い意味で驚いていた。
深雪は少し考えて、「もしかすると『白い肌』というのは、悪い意味ではない時にも使うのかも」と思った。座敷牢での隔離が長かったせいで、世間一般の感覚が掴み辛い。
「それとその瞳……まるで、紅玉のような鳩の血の色。滅多に見ない色だな」
瞳の色を指摘され、深雪は周囲の人々のそれを眺めた。すると、ほとんどの人が黒っぽいような瞳を持っていた。
自分はどうだろうかと、深雪は汽車の窓硝子に映る自分の瞳を見る。赤っぽい目をしていた。
なぜ他の人と色が違うのだろうか。肌の白さと違って具体的な要因が分からない。考えられるとすれば、”狐憑き”だから……?
深雪は他の人に狐憑きであることを知られたくなくて、何を言われるか分からないから、思わず崇正の後ろに隠れた。
「……怖くなっちゃったかな。伊佐中尉は顔が厳ついから。大丈夫だよ。深雪のこと綺麗だねって言っているだけだから」
「そんなに俺は厳ついか? ……まぁ良い。それにしても随分と懐いているな。浅葱少尉は女に疎いヤツだと思っていたが、中々どうして」
「今も疎いままですよ」
深雪の目には、今の崇正は肩の力が抜けているように見えた。そして思った。わたしと会話している時よりも、この初老の車掌と話している時の方が自然体だ、と。
男の人相手にこんな事を思うのもおかしいのかも知れないが、深雪はこの車掌に少し嫉妬した。
「うん……? 何か誰かに睨まれているような気がするのだが」
「誰が中尉を睨むと言うのですか。気のせいではないですか?」
「……それもそうだな。軍役についていた頃ならともかく、今はただの車掌だからな。……いやまて、もしかすると、キセルをしているヤツがいるのかも知れん。車掌の姿を見れば、警戒して注意深く見て来るだろうな。その視線かも分からん。ようし、探し出さねば」
「お気をつけて」
深雪の視線を勘違いした車掌が、ふんすと鼻息を荒くして、どこかに去って行った。
深雪は二つの意味で少しホッとした。一つ目は狐憑きだとバレずに済んで良かった、ということ。二つ目は崇正と車掌が離れたこと。
☆
がたん、がたん、と汽車が揺れる。
一定のリズムを刻む振動に、深雪はだんだんとウトウトしてしまって、つい、隣の崇正の肩に寄りかかる。
「……ずっと家の中にいたと聞いているよ。だから外は慣れないよね。寝ても大丈夫。耳がバレないように見張っているし、着いたらちゃんと起こすから」
「……ごめんなさい」
「謝る必要はないよ。お休み」
そう言って、崇正は深雪に自分の上着を掛けた。深雪は、崇正の言葉に甘えることにして、静かに寝息を立て始める。
ふと、狐耳の根本が気持ち良くなった。優しく撫でられている感じがしたのだが……深雪は気のせいだと思い、すやすやと眠りに落ちた。
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