第5話 浅はかさは愚かしい
パソコンに向かい、難しい顔で仕事をしている魔王様。
惜しい。非常に惜しい。
その鼻にティッシュが詰まっていなければ、どこに出しても恥ずかしくない研究者に見えるのに。アイロンのかかったワイシャツにベスト。黒の細身のスラックスから伸びる脚は机の下で組まれていて、磨かれた革のシューズが揺れている。
いつ取材が来ても、臆することなく通すことができる。
いや。今は出来ないが。が、そろそろマスコミもうるさい。一度どこかで顔を見せなければならないだろう。
元々出不精なのが幸いして、まだ研究室から出てこないと誤魔化せてはいるが……
スマホを耳から離してじっと魔王様を観察する。
最初は指一本から始まったパソコン操作も、すぐにブラインドタッチになり、マウスのボタン操作も使いこなしていた。集中していれば話しかけても生返事になるところはトールと変わりない。その隙に私が対応する……というのは、以前と変わりない構図だから、問題なさそうだ。
あとは、外のことをどう伝えて、いかに世界征服から目を逸らさせるか……
魔王様の瞳がやや細められ、空いていた左手がカップに伸びる。
「あっ……魔王さ……」
ハッと気づいた時には遅かった。紅茶を握り潰した魔王様に、私はまたうっかりコーヒーを淹れていた。カリカリしていたので頭から抜け落ちたのだ。朝はシャワーに突っ込む理由にもなるのでわざとだが、今はまずい。
傾けられるカップを見ながら、慌てて駆け寄りノートパソコンを持ち上げる。繋がっていた電源コードが、書類をいくつかとペン立てを弾き飛ばして派手な音を立てた。
コクリ、と魔王様の喉が上下する。
え? 飲ん、だ?
画面を追いかけた視線が、つと私を向いた。小さく眉根が寄る。
「何のつもりです。ま――」
その視線と、声のトーンがすっかりトールのものだったので、私の心臓は跳ね上がった。彼は自分の左手に視線を落とすと、きょとんと眼を見開く。
「待て。なんでこぉひぃが入ってる。危なかった! そうか、それを知らせに来たのだな? 心配りは認めるが、そもそも最初から紅茶にしておけば何の問題も――」
飲み込んでおいて、誤魔化すつもり?
散らかった机の上に音を立ててパソコンを置く。ビクッと魔王様は少しのけぞった。
「……トールなの?」
「な……なんのことだ。誰だ、それは」
「こんな、とんでもない茶番を演じれば、口うるさく言われることもなく研究に没頭できるものね。そんな演技力があるとは知らなかった!」
「茶番だと?」
病院で見たような、剣呑な光がその目に宿る。
「あれだけの範囲を失くしてやった、俺のどこが茶番なんだ! その男は、そんなことができると言うのか!」
「私に隠れてコソコソ何かしてるのはいつものことでしょ! とんでもなく危ないもの作り上げて、見つかったらヤバいってどこかに隠してたかも」
「なんだと!? 俺のしたことを他の誰かにすり替えられるのは我慢ならん!」
机越しに胸ぐらをつかまれ、ぐいと顔を寄せられる。
ギラギラする瞳はトールとは似ても似つかない。わからなくなる。
「……どっちも、あなたじゃない……答えなさいよ。期限はとっくに過ぎてんのよ! どこまでルーズなの!!」
ネクタイをつかみ返せば、眉間の皺が深くなった。
「どっちも? そうか。以前の俺か。なるほど。それならさもありなん。だが、あれは俺の力だし、ここまでしかできていない『俺』がこの世界で作り上げられるほど生易しい構造ではないわ」
指差された先の画面には、物質転送装置の設計図が開かれていた。
「しかし、そうかなるほど。妙に馴染むと思ったのだ。この装置からまだ発展させ、魔力がなくとも世界中を移動できる装置にするのだろう? 同時に兵力を蓄え、一斉に攻め込む。それまでは善良な市民の皮を被っていれば、事はスムーズに進む……下僕が以前の俺を評価するのも仕方がない」
「な……」
酷薄な笑みにぞっとする。
「他の研究はすべて、魔力がなくともエネルギーを凝縮させ、持ち運び、武器として使用するための布石だ。亀の歩みだったようだが、よくここまでにしたものだ。感謝するぞ。下僕。この城は素晴らしい。今さっき、いい方法を思いついて……」
ぴたりと魔王様の動きが止まった。酷薄だった笑みは、ちょっとひきつった情けないものに変わっていく。
「い、いや、ほら。思いついたのだ。い、一度思いついたのだから、すぐに思い出す。うん。すぐだからな。安心しろ? そ、それで? 期限がなんだって? ん? 機嫌か?」
胸ぐらをつかんでいた手が繕うようにその皺を伸ばし、両肩をぽんぽんと叩いた。
魔王様の心の動きは目に見えて判る。トールは多くを語らなかったし、表情も豊かではなかった。だから、訊かなければ判らなかったのだ。
「魔王様……」
「うん? ちょっと凄み過ぎたか? そう怯え……あの。もう、離して?」
「今の話ですと、私ごときはもう必要ないということですね?」
「は!?」
ネクタイを手の中で滑らせ、離れようとしたその手を魔王様は掴んだ。
「そんな話は一言もした覚えは無い!」
「ですが、研究はお一人でも大丈夫と言うし、好みの飲み物も満足に覚えられない、魔王様を疑う秘書など、いなくともよろしいのでは」
「そうやって……出て行こうとしても駄目だぞ! いいか! 俺がクビと言うまでは、下僕は俺の下僕だ! お前がいなくなったら、誰が俺と虫けらどもを繋ぐのだ? そんな便利な者は他に――」
そうだ。私はトールにもそう言ってほしかったのだ。「愛してる」を期待したわけじゃない。せめて、お前が必要だと。
思わずこぼれた涙が一粒床に落ちるまでに、魔王様はひどく狼狽した。
慌てて勢いよく離した手がパソコンのキーボードを鳴らし、マウスを弾き飛ばして固まる。
「やめろ。ダメだ。それは、禍を呼ぶ」
「……大丈夫です。目にゴミが入っただけですから」
「あ。そ、そうか? 本当に?」
「はい……」
視線を落とし、乱れた机の上やパソコンを直そうとして、画面に先ほどとは違うウィンドウが出ているのに気付く。
――Delete しました
顎が外れそうになっている私を見て、魔王様も画面に視線を移す。
静かな阿鼻叫喚の時間が過ぎ、呼吸を思い出した魔王様の声が響く。
「な、な、な、何を消したんだ!」
「こちらのセリフです! 何の作業をしていたのですか!」
「次代機のプレゼン用資料が物足りなかったから、改善点と新機能を組み込ませてみてて……いや。コピーとかバックアップとか、あるよな? な?!」
「製品になっているものはもちろんあります。ですが、トールが進めていた次のものは、彼しか知らないんです! 魔王様、彼のパスワードで開いたんですよね?! 覚えてらっしゃるでしょう!?」
「ひんっ」
「魔王様!?」
とたんに机の下に隠れだした自称「つよいまおうさま」に、私の涙は吹き飛ばされていった。
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