第4話 致命的な致命傷

 レントゲンやCTやMRIの結果を見ても、トール・サガミの身体に異常も妙な変化もなかった。中性脂肪が多少増えているのは、引きこもり具合を思えば当たり前でさえある。左腕と頬のあたりまで伸びていた雷紋は、薄れてほとんどわからないくらいまでに回復していた。

 残るは脳の異常を疑うのみ。検査では見つけられない異常を。

 検査結果を穴が開くほど見つめて、私は眉間の皺をもみほぐした。

 ……コーヒーでも飲もう。

 サーバーから立ち上る、豆を挽く匂いに少しだけ癒される。そういえば、トールが自分で淹れに来るときは、カップと間違えてよくビーカーを持ってきてたっけ。


 給湯室には、まさに彼の姿があった。手にしているのはウェッジウッドのカップと紅茶のパックだったけど。

 淹れ方お湯の注ぎ方を教えたら、自分でやるようになった。最初のいかにもな魔王ぶりは何だったのかと、訝しむ思いが無いわけではない。魔力とやらが回復しないから、反撃を恐れている?

 それにしてはあっさりとこちらの言い分を信じ切ってやしないか。それとも……そうやって油断を誘っているだけだったりするのだろうか。

 不意に魔王様が振り返った。


「なんだ? 下僕。お前も飲みたいのか?」


 飲みたいと言ったら淹れてくれるのか。


「いいえ。私はコーヒーを淹れに来たので」


 ふぅん、と魔王様は口を尖らす。


「そんな焦げを溶かしたような飲み物のどこがいいんだ」

「以前の魔王様も泥のようなコーヒーをよく飲んでらっしゃいましたよ」


 朝一にコーヒーを淹れてしまうのは、その名残かもしれない。トールは何がいいとか言ったことはなかったけど。


「ぐぬ……以前の俺の方が魔王らしいと言うのか!」

「……は?」


 ぷすぷすとむくれる様子は本当に子供っぽい。トールとは違うところで手がかかる。


「ハロンに言われたからな。「魔王たるもの、苦みや辛みが楽しめないのは威厳に欠ける」」


 なんじゃそりゃ。


「ハロン、とは」

「ふふふ。聞いて驚け。魔王の左腕と呼ばれた男よ」


 右腕ではなく?


「右腕はおられなかったのですか?」

「いたとも。クロロフル。幼き頃から頼りになる二人だった」


 胸を張る様子は、ずいぶんと信頼していたらしい。


「それは……さぞ、お強かったのでしょうね……」

「ん……? ま、まあな。最後の瞬間まで、俺が手を出すことはないくらいだった」

「最後……そういえば、魔王様はどうしてこちらに来られたのです? 誰かに呼ばれたとか、あちらで送り込んだと、そういう感じだったのですか?」


 魔王様は少し首を傾げた。


「いいや。気づいたら俺だった。あちらでは……たぶん、勇者の一撃を食らって……」

「勇者!」

「そうだ。思い出してきたぞ。勇者が俺の城まで乗り込んできて、ハロンとクロロを人質に暴れまわってくれたのだ。彼らを見捨てられるわけもなく、いいように攻撃されて……雷神の剣で一刀両断に……」


 怖い顔をした魔王様の手元で、何かが砕ける音がした。ハッとして駆け寄り、陶器のカップを握り潰した魔王様の手を水道水で洗い流す。


「熱くはなかったですか? 傷は……ないようですが」

「……下僕に心配されるようなことは……俺は、強いんだ……」

「以前は強くても、今はただの人。怪我をしたら心配です」

「そう……か? 俺は心配されたことなど無い。まあ、人間この体は、弱いからな。魔力さえ戻れば……」


 つと、反対の手で額を軽く抑える魔王様の様子は少し心配だったが、の話には興味が湧いた。整合性のある話なんだろうか。


「それでは、皆さん勇者にやられてしまったのですね……おいたわしい……お二方は、こちらに来ていないのでしょうか。合流できれば、心強いですよね?」


 少し話を戻して、様子を窺う。眉をひそめて、魔王様は思い出そうとしているようだった。


「――わからない。斬られそうになったハロンをかばって、俺が斬られたからな。あのままでは、たぶん……」

「……かばって?」

「ああ」


 それは、目の前の魔王様のイメージと乖離しない。けれど、なんだろう。もどかしい。魔王が部下を大事にしたって、全然変じゃない。のに。


「ああ、くそっ。一つ思い出したら芋づる式に思い出してきたわ! あの勇者の陰険なやり口! 一緒に戦ってきたであろう女魔術師を囮に使った上にあっさりと見捨てて……!」


 キッと魔王様は私を睨みつけた。


「マリアンヌ! バフ、デバフ使いに長け、回復もこなす。胸に肉付きの良い、厄介極まりない女! まさか、お前……! ……あっ」


 一転、興奮気味にまくし立て、振り払われた手は水道水を巻き込んで水の塊を飛ばす。狙ったように私の顔にクリーンヒットしたそれは、微妙な間を二人の間に作ることになった。

 ふぅ、と一息つくと、魔王様がびくりと身体を揺らす。


「名前の相似だけでお疑いですか? 私にも魔力とやらを感じると? では、もう少し身辺にお気をつけくださいませ。私の淹れるコーヒーなど、口にしてはいけません」

「あれは飲まねばならぬ!」


 勢いで出た言葉に、魔王様自身が驚いていた。


「なんだそれは」

「なんですかそれ」


 怪訝な顔を見合わせたが、答えはどこにも転がっていなかった。

 そう言ってはいても、いまだに一口も飲み込めていないのだ。魔王の威厳のために努力していると……そういうこと、だろうか。


「ともかく、私はゲーム用語もよく解りませんし、その女とも無関係です。身体検査でもしてみますか?」


 白衣の前をちらりと開ければ、魔王様は頭から湯気を出して(マテ。なんで本当に出てる)赤くなった。


「よ……よ、よ、よ、よい! 魔力は、感じ、ない! 胸のサイズもだいぶ違……そうだ! む、虫けらだ! だから、下僕、なの……」


 たり、と鼻血が垂れてくる。

 こいつ、女耐性ないのか。そして何気に失礼なところで判定しなかったか?

 彼の話が本当なら、あっさりやられた理由が見える気がした。

 にこりと笑って、私はそこにあったを手にする。


「今、ご想像されたことに、私は怒る権利があると思います。……この、むっつり魔王!!」


 布巾の下で、ぷきゅ、と鳴き声のようなものが鳴った。

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