第28話 これから
早々に搭乗手続きを済ませ、小さなスーツケースをチェックインした。
目についたカフェに入り、コーヒーを注文する。さっきチェックインしたばかりのスーツケースが、機内に持ち込めるサイズだったのを思い出して、心の中で舌打ちした。頭がまともに働いていない。
別に飲みたくもないコーヒーを口に運びながら、新島さんのことを考えた。私は新島さんにはウソがつけない。ウソをつきたくないというより、新島さんは、隠していても悟られてしまう。何もなかったかのように、まったく元どおりになるなんてことは、きっとない。
でも不思議と、ピエトロが描いた私の絵を見なきゃよかったとか、オーストラリアまで来るんじゃなかったとか、そういう気持ちはないんだ。少しでもピエトロに会えたことは、うれしかった。あの絵を見たときから、とにかくこうするしか選択肢がなかったような気がする。
カフェを出て、公衆電話を探す。今でも公衆電話がある場所なんて、空港くらいかもしれない。会社に体調が悪くて出社できないことを告げ、電話を切った。
空港のお店を放心状態のままふらふらと巡っているうちに、セキュリティーゲートに着いた。
携帯とハンドバッグをトレイに乗せる。言われるまま、くつも脱いでベルトコンベアーの上に乗せた。ゲートをくぐると、女性のセキュリティーガードの人が、私の体に金属探知機をあてる。頭がふわふわして、自分に起こっていることが夢みたいに思える。これから日本に帰って、明日は仕事だなんて、まるで実感がわかない。
「しずか」
そのとき、誰かが私を呼んだ気がして、ふり返った。セキュリティーゲートに並ぶ大勢の人たちが目に入る。気のせいだ、と思って前に進もうとしたとき、また「しずか」と呼ぶ声が聞こえた。もう一度ふりむくと、今度は「しずか」と遠くのほうで大きく叫んでる声が聞こえた。聞きなれた声に、まさか、と心臓が飛び跳ねる。
私の目がその人を探し当てた瞬間、時間が止まったように思えた。
ピエトロだ。セキュリティーゲートの外で、ピエトロが大きく両手をふっているのが見える。
考える前に、私はゲートを逆戻りしていた。裸足のまま、人混みをかき分けて、ピエトロのほうへ向かう。背後から、さっきのセキュリティーガードの人が「エクスキューズ・ミー!」と叫んでいるのが聞こえた。いろんな人にぶつかって、「おい」とか「きゃあ」とか声がするけど、かまっていられない。
とにかく急いでピエトロのところまで向かった。ピエトロの前までたどり着くころには、息が上がっていた。心臓が口から飛び出しそうだ。せっかくピエトロの前まで来たのに、どうしていいかわからなくて、私は立ちつくした。
そんな私を前に、ピエトロもどうしていいかわからない様子で、驚いた顔と困った顔を混ぜたような表情をしていた。ピエトロも走ってきたのか、呼吸が浅くて、前髪が汗で額にへばりついていている。
「私、どうしようもなくバカなの」まず最初に、そんな台詞が口から出てきて、それと一緒に涙が出た。
一瞬、間が空いて、あはは、とピエトロが困り顔のまま笑った。
「本当に、昔っからきみは、次に何を言い出すか予測がつかない」くしゃくしゃに笑って、そう言うピエトロに、私は抱きついた。ピエトロの体は暖かくて汗くさい。私の大好きなにおいを、思いきり吸い込む。
「ピエトロ、私、指輪なんていらない。子どももいらない。あなたしかいらない」
首にしがみつくようにして私がそう言うと、それに応えるようにピエトロは私を抱きしめ返した。
「愛してる」腕に力をこめて、祈るような気持ちで私は言った。
私の背中に回したピエトロの手に、さらにぎゅっと力がこもって、ピエトロが私の耳に何かささやく。
ピエトロの顔を見ると、いつもの笑顔で私を見ていた。ピエトロの体温を感じて、じわじわと喜びで体が満たされていく。満たされた気持ちがこぼれるように、口からふふっと笑い声がもれる。
携帯も、お財布やパスポートの入ったハンドバッグも、まだトレイの上だし、くつだって置いてきたままだ。間違ってチェックインしたスーツケースは、今日のフライトに乗って今夜には東京に着くだろう。その飛行機に乗るつもりはない。
ピエトロには付き合ってる人がいるし、私は日本に婚約者がいる。仕事だってある。
明日のことはまだわからない。でも、今度こそ、自分が信じたいことを信じることに決めた。これからどうなったとしても、今日のことを私は絶対に後悔しない。
(了)
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