第27話 いちばん悲しい日
「今もなの。今でも、愛してるの。あなたのことを、他の誰よりも。」
本当は、これが伝えたくてオーストラリアまで来たのかもしれない。
「ありがとう」とピエトロに言われて、高揚していたが気持ちが一気に沈んだ。これから、ピエトロが言うことは、きっと私が聞きたいことじゃない。
「僕、今付き合ってる人がいるんだよ」
その言葉を聞いたとたん、しゅるしゅると空気が抜けるように、自分の体が半分くらいの大きさまで縮んだ気がした。
「しずか」とピエトロが私の名前を呼ぶ。私がピエトロの顔を見ると、ピエトロは困ったように笑っていた。
「相変わらずだなあ。きみは、気持ちがぜんぶ顔に出るんだもの。そんな顔をされると、どうしていいかわからない」
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
困った顔で、私を慰める言葉を探しているピエトロを見て、私はイスから立ち上がった。ピエトロを見ないように下を向いて、五十ドル札をテーブルにそっと置く。
「僕が払うよ」と言うピエトロに向かって、私は首を横にふる。
「明日の朝のフライトだから、もう帰らないと」
「うん」
「ピエトロ、会えてうれしかった」
「僕も、会えて本当にうれしかった」
私は無理やり笑顔を作って、店を出ると、逃げるように早足で歩いた。涙がほおを伝うのを、手でぬぐう。ハンカチを持っていないのは、昔からだ。ピエトロは追ってこない。
「よりを戻すつもりはない」なんて言いながら、本当は期待していたんだ、きっと。ピエトロに「僕も愛してるよ」て言ってほしかった。それ以外の答えはぜんぶ、何を言われても悲しいだけだ。ピエトロはもう私のことなんて吹っ切れていたのに、私だけずっと想っていたんだ。
執着心だとか独占欲とは違う気がする。ピエトロを独り占めしたいわけじゃない。ただ、ピエトロのそばにいたいんだ。ピエトロがどうしようもなく好きで、ピエトロといる自分が好きだ。私をこんな気持ちにさせてくれる人に、私は他に会ったことがない。もしかしたら、そんな人にはもう出会えないのかもしれない。
わかっていたつもりだった。でも、ちっともわかってなかった。
ピエトロに自分の気持ちを伝えないと、絶対に後悔すると思った。でも、言ってしまってスッキリなんてしていない。十時間かけてオーストラリアまで飛んで来たけど、なにも解決してない。解決なんて、しないんだ。どこにもいけない気持ちを抱えて、ただ息をすることしかできない。そうやって時間が経てば、今日のこの気持ちも、いつか、よくある失恋になる。それまでは、ただじっと生きていくしかない。
トラムに乗ると、乗客がチラチラと私のほうを見た。ひどい顔をしているのに違いない。窓から見える夜の街に、ガラスに反射する自分の顔が写っている。涙が流れ続けて、息をするたびにくちびるが震える。
ホテルの部屋に着くとすぐに、グチャグチャになった化粧を落とした。すっぴんになった自分の顔が、恐ろしく老けて見える。
ベッドに入って、自分を抱きしめるように、体を丸くした。そんな自分がとてつもなく滑稽に思えた。私って、本当にバカだ。
リセットしたい。今までの自分を全部チャラにしたら、この苦しい気持ちもどこかに行けるかもしれない。このまま朝になったら、今までの自分が死んで、新しい自分に生まれ変わってたらいいのに。そう願いながら、目をぎゅっとつぶった。それからしばらくして浅い眠りに落ちた。
夢を見た。霧が立ち込めていて、周りが全く見えない。自分の足元さえ見えないくらいだ。恐る恐る歩いて行くと、ドアがあった。ドアノブを回しても、ドアを押しても引いても開かない。鍵がかかっているみたい。あきらめて、また歩いていると、新しいドアがあった。それも開かない。そうやって、歩いてはドアにあたって、開かない、というのを繰り返しているうちに、どこをどう歩いていたのかわからなくなった。今ガチャガチャやってるドアは、前に見たことがあるような気がする。同じところをぐるぐる回っているんだろうか。
私はドアに額を押し付けて「ごめんなさい」と言った。それから、ドアの前にうずくまった。ドアに顔をくっつけたまま、私は泣いた。泣きながら何度も「ごめんなさい」とつぶやいた。なぜ、誰に対して謝っているのか、自分でもわからないまま。
ふっと目が覚めた。カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。ホテルのデジタル時計が朝の六時を少し過ぎたことを示していた。のそのそと起きて、シャワーを浴びる。泣きはらした顔はむくんでいて、昨日と同じ私だった。
食欲もないし、化粧をする気もおきない。もともと多くない荷物をまとめると、することもなくて、早いうちにチェックアウトして空港へ向かった。
(つづく)
次回で最終回です。
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