第26話 ピエトロと再会
空港でルーシーと別れて、ホテルに着くころには、もう夜の十一時を過ぎていた。
携帯に新島さんからの着信が数回あった。会わない日は、毎晩どちらかが電話をかけて、短い会話をするのが習慣になっている。
「いろいろあって、ルーシーと一緒にオーストラリアに来ています。火曜日には必ず連絡を入れます。心配かけてごめんなさい」
そうメールをすると、私は携帯の電源を切った。いま新島さんと話をしても、なにをどう説明していいかわからない。楽な格好に着替えて、たおれこむようにベッドに横になると、そのまま目を閉じた。
翌朝、シャワーを浴びて、買ったばかりのオフホワイトのワンピースを着た。それから、念入りに化粧をする。鏡に写った自分は、七年前の自分よりもずっと大人になっていて、なかなか悪くない。
すぐにでもピエトロに会いに行きたかったけど、いざとなると決心がつかない。街を散歩したり、カフェでランチを食べたりして日中を過ごした。グループ展にようやく足を運んだときは、もう閉まる三十分前だった。
大通りから入った路地に、その古いレンガ造りの建物はあった。昔は何かの工場だったらしく、壁はコンクリートの打ちっ放しで、天井が高い。ピエトロを含む五人のアーティストの作品が、広い壁に何点もかけられてあった。
ピエトロの絵はすぐにわかる。一見、写真のように見える絵が集まっている一角がある。そこに、折りたたみイスに座っている男性がいる。遠目に、その人がピエトロだとわかった。
ぎゅっと握った右手が、汗で湿っていることに気づく。動悸がどんどん早くなるのを押さえるように、私は深呼吸をした。なるべくピエトロのほうを見ないようにして、私は自分の肖像画の前へ歩みよった。
実際に見る絵は、携帯の写真よりも、ずっとパワーがある。圧倒されて、息をするのも難しく感じる。うっかり泣かないように、奥歯に力を入れた。
「あの……」と声をかけられたほうへ、顔を向ける。七年ぶりのピエトロの顔が、そこにあった。髪に白いものが混じっていて、笑っていないのに、目尻に少しシワがある。あれから、確かに年月が経ったんだ。でも、私はやっぱりこの顔を愛している。白髪もシワも。
ピエトロの目が少しずつ大きくなって、口が大きく開いた。
「しずか!」と呼ばれて、私は破顔した。ああ、うれしい。会えて死ぬほどうれしい。泣いちゃダメだと自分に言い聞かせる。
「最初わかんなかったよ。本当にしずかなの?」
「そうだよ。思い出した?」
「だって、すごくきれいになったから」と笑顔で言われて、私はふっと笑った。ピエトロは歳を重ねても相変わらずだ。
「ピエトロは、ちょっと老けたね」と私が言うと、
「なんだって?」とピエトロが笑いながら、私の肩を軽く小突く。
私は声を出して笑った。いけない、気を許すと涙がでそうだ。
「みんな売れちゃったの?」ピエトロの絵の下には、どれも、オレンジ色の小さなシールが貼ってある。誰かに売れた印だ。
「うん」
「私の絵も、売れたのね」
「あれが一番先に売れたよ。モデルがよかったからね」
そう冗談っぽく言われて、私はまた笑った。
ピエトロの左のくすり指をさりげなく確認してしまった。指輪はついてない。
「しずか、なんでここに?」とピエトロがもっともな質問をする。
「ちょっとした旅行。ルーシーに会いに来たの。そしたら、私の絵のこと教えてくれて。だから、見に来たんだ」
「そっか」
「ねえ、ピエトロ、ご飯でも一緒に食べない?」
私が思い切ってそう聞くと、ピエトロは数秒、考えてから「ちょっと待って」と言って携帯でパチパチやり始めた。
「あ、もしかして用事があるんじゃない?」
「ううん、もうない」携帯をポケットにしまいながらピエトロが言う。
「さっきメールで断ったんでしょ。わざわざそんなことしなくていいのに」
「たいした用事じゃないから、いいんだよ。しずかと会えるなんて、滅多にないもん。これから後片付けがあるけど、その後ご飯にしよう」
後片付けの後で、近くのベトナム料理屋さんに行った。ガタガタ動く安物の四角いテーブルに、ビニールのカバーのイス。店内はにぎわっていて、ベトナム語を話すお客さんも多い。私とピエトロはそれぞれビールとフォーを注文した。
あつあつのフォーには、山盛りのもやしやパクチー、それに切ったレモンと生の唐辛子が別のお皿で付いてくる。たっぷり量があって、新鮮でおいしい。昔よく食べた味だ。二人でビールで乾杯して、お腹いっぱいご飯を食べているうちに、最初の緊張はすっかりとけた。
仕事はどう? 日本の生活はどう? なんて、お互いの近況を聞きつつ、昔の話も混ざって、あっという間に時間が過ぎる。
「明日の朝十時のフライトで、日本に帰るんだ」と私が言うと、
「え? そんなにすぐ帰るの?」とピエトロは目を丸くした。
「うん。帰る前に、どうしてもあなたに会いたかったの」
「会いに来てくれて、うれしいよ」そう屈託なく言われて、私はまた泣きそうになる。私がピエトロに会えてどれだけうれしいか、きっと彼は知らない。
「謝りたくて」
私がそう言うと、ピエトロは首をかしげた。
「ウソついたから」と私は言った。
「ウソ?」
「うん。ピエトロは覚えてないかもしれないけど。別れたときに、愛してないってウソついたの」
ピエトロの顔から笑顔が消えて、真剣な表情になった。
「本当は、愛してたの。ああいうふうに傷付けて、申し訳ないと思ってる。すごく昔のこと、今さら持ち出して、変だよね。でも、どうしても伝えたかったの」
へへ、と照れ笑いをする私に、ピエトロは複雑な笑顔を見せた。
「しずかが謝るんだったら、僕だって謝らないといけない」
「どうして?」
「僕も逃げたから。きみが欲しがってたものが、あげられなかった。指輪とか子どもとか……つまり、安定だとか家庭だとか、そういうもの。約束する決心がつかなくて、引き止めなかったもの」
そう言うピエトロの顔を見ていたら、どうしても伝えたいことが胸にわいてきた。今言わないと、一生後悔する。急速に脈打ち出した心臓を、右手でおさえ、ひとつ深呼吸をしてから言った。
「今もなの。今でも、愛してるの。あなたのことを、他の誰よりも。」
(つづく)
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