第20話 新島さんとご飯
その日は、朝から厄日だった。駅のホームで、突然、パンプスのヒールが取れた。駅ビルのくつ屋さんが開店するのを待って、新しいくつを買って(あまり趣味じゃないやつ)、走って出社した。せっかく余裕を持って家を出たのに、朝イチの面接に五分遅刻してしまい、平謝りした。
午後の面接では、妙に上から目線の男性から年齢を聞かれ、「独身?」「結婚願望とかないの?」などと変な質問をされて、「プライベートなことなので」とお茶をにごしたら、「あのね、そういうこと言うから、行きおくれるんだよ」と時代錯誤も
定時で上がったのは、新島さんとご飯を食べに行く予定があったからだけど、正直、もう家に帰りたかった。
「川瀬さん、今日なにかあったんですか?」
おでん屋さんのカウンターに座るのと同時に、新島さんから第一声で聞かれた。なんでそんなにすぐ分かるんだろう。そんな新島さんの優しさにさえ、理不尽に苛立ってしまう。
「朝からちょっとツイてなくて。でも、大丈夫です。ここ、新島さんの行きつけなんですよね。なにかお勧めはありますか?」
「そうですねぇ。大根、卵、こんにゃくは鉄版でハズせないですけど、ここの牛スジはぜひ食べてほしいです。飲み物は、まずはビールにします?」
「あ、はい。ビールで」
新島さんはカウンターの中にいるおじさんに、手際よく二人ぶんの注文をしてくれる。小ぢんまりしていて、カジュアルな席だけど、カウンターは
おでんは、本当においしかった。あったかい出汁の味が、ささくれ立っていた心にしみる。途中で日本酒にして飲んでいるうちに、新島さんの冗談にも声を出して笑うようになっていた。
新島さんはいつも、仕事の失敗談だとか、どうでもいいトリビアだとか、私を楽しませるようなことばかり話してくれる。私のグチは真剣に聞いてくれるのに、新島さんのグチを、私は聞いたことがない。お酒が切れそうになったら「まだ飲みますか?」とすぐに聞いてくれるし、もう帰りたいと思うタイミングで「お茶にします?」と聞いてくる。
普段だったら、新島さんは本当に優しいなぁって素直に喜んでる。でも、今日は新島さんに、接待でも受けてるみたいで、なんだか居心地が悪いんだ。
新島さんの話に、顔だけは笑顔で相づちを打ちながら、そんなことを考えていたら、新島さんが急にカバンからA4サイズのプリントを取り出した。
「ちょっと待っててくださいね」と言って、新島さんは紙を折り始めた。「よし、こんなもんかな」と見せてくれた完成品は、紙でできた、底のないコップのような、円錐形の物体だった。
「これ、なんだと思います?」と聞かれて、私は首をひねる。
「なんでしょう。ペン立て……だったら底がないですし。あ! ランタンですか? キャンドルを中に入れたらきれいかも」
「ふっふっふ。いい線いってますけど、ハズレです」
「えー、なんだろう。」と私がさらに首をひねっていると、新島さんがその円錐をスッと投げた。
その物体は、せまいおでん屋さんの天井近くまで上がり、数秒の間、空中を飛び続け、お店の壁際の床に、ストンと落ちた。
「うわあ。」と反射的に感嘆の声がもれた。他のお客さんの中にも、びっくりしてこちらを向いた人が何人かいた。みんな、子どもが驚いたような顔になってた。
「紙飛行機です」と新島さんがニッコリして言った。
「ええー! あんな形の紙飛行機、初めてみました。すごく飛んでましたよね?」
「意外でしょう。普通の紙飛行機よりも飛びますよ。僕、紙飛行機作るのに凝った時期があって。今でも十種類くらい、違うのが折れます。先端の重さだとか、翼の角度とか、個体の大きさとかで飛び方が変わるんで、おもしろいんですよ」
「そうなんですか。すごいですね。さっきの円錐の飛行機、私も飛ばしてみたいです。私のコントロールだと、おでんに入っちゃいそうなんで、お店じゃ無理ですけど」
「じゃあ、お店の外に出たら飛ばしましょう」と新島さんが笑った。
「よかった。やっと、ちょっと元気が出たみたいですね」と新島さんが言う。
ああ、あれは、私を元気付けるためにやったんだ。そう気づいた瞬間、私の胸はぎゅーっと苦しくなった。
この人は、人の気持ちがわかりすぎる。優しすぎるんだ。
「新島さん、私にそんなに気を使わないでください」私がそう言うと、新島さんはきょとんとした顔になった。
「新島さんが、本当は何を考えてるのか、私はわからないんです。いつも元気で明るい人じゃなくてもいいんです。もっと、わがままとか言ってください」と私が言うと、新島さんの顔から笑顔が消えて、困った顔になった。新島さんの困った顔は、いつもの笑顔よりもずっと幼くて、子グマみたいにかわいかった。
たぶん、今日の私は情緒不安定で、いつもは隠れている感情が吹き出しちゃったんだろう。目の前にいる男の人が、泣きたいくらい、かわいそうに思えたんだ。
好きな人を、かわいそうだと思う気持ちは、恋をして苦しい気持ちとすごく似ている。少なくとも、この気持ちがそのどちらなのか、今の私には区別がつかない。
(つづく)
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