第15話 記憶

「そろそろ、日本に帰ろうかと思うんだ」


 私が突然そう言ったら、ピエトロは目をパチパチさせた。


 私が作った山盛りの餃子を、ビールと一緒に二人でぜんぶ食べてしまって、「あの量を食べ切るなんて信じられない」なんて、二人で笑ってたときのことだ。


 私ってどうしようもない。言わなきゃ、と思ってることが、ずっと言えないくせに、自分も予想してないときに、ぽろっと口から出てきちゃうんだ。まるで「明日は雨になるらしいよ」と言うくらい自然に。


「どういうこと?」とピエトロが聞いた。

「どうって……。もうすぐビザ切れるし。仕事も決まりそうにないし。あんまりギリギリまでいたくないから、来月頭くらいに帰国しようかと思ってるの」

「そういうこと、どうして僕に相談しないの?」そうピエトロに聞かれて、私は下を向く。


 ゾワゾワと背筋が冷たくなる。大事な腕時計を落としてしまったと気づいたとき。もらった花の苗を枯らしてしまったとき。取り返しのつかない事態を招いてしまったときの、あの感覚。


「もう、決めたことなの」と私が言うと、ピエトロのいつもの柔和な笑顔が消えた。

「ビザのことだったら、僕が結婚するのじゃ、ダメなの?」


 でもピエトロ、あなたはプロポーズだって、ちゃんとしたことがないじゃない。もうすぐビザが切れるのは分かってるのに、自分からつなぎとめようとは、してくれなかったじゃない。


 そんな言葉が頭に浮かんできて、私は自分のことが心底いやになる。けっきょく、私はピエトロの愛情にすがって生きてる。ピエトロが、指輪を持って片膝をついてくれていたら、私はこっちに残ることにしたんだろうか。そんな自分がどうしようもなく浅ましく思える。ここじゃないところに行きたい。たった一人の人間に愛されることに、全てをゆだねたりしないでいい場所に。


「ピエトロ、指輪は? それから、子どもとかは? ピエトロにとって結婚って、そんなに簡単なものなの? ビザのために結婚して、それからどうするの? 私も、永住権が取れる前に離婚されるかもしれないじゃない。そしたら、追い出されるの?」


 そう言い終えて、ピエトロの顔を見る。怒ったような真剣な顔。自分の言葉が彼を傷つけてるのを知ってる。でも、止まらない。


「しずかは、僕の気持ちをなんだと思ってるの」


 ピエトロは私を愛してるって言う。でも、私は自分のことなんて愛してない。自分じゃない人になりたい。ピエトロみたいになりたい。私はきっとピエトロに嫉妬してて、いつか、ピエトロにいつか置いてかれそうなのが怖いんだ。そんなこと、説明したってピエトロにはきっとわかってもらえない。


「しずかは、いま子どもがほしいの?」そう聞かれて、私は首を横にふる。

「そうじゃないけど……」

「僕が指輪を買ったら、結婚してくれる?」そう言うピエトロの声は震えていて、私は、それがどんな感情からくるものなのかわからない。

「そういうことじゃなくて……」


 ピエトロのまっすぐな質問に、私はちゃんと答えることができない。ピエトロの正論は、どこか致命的に外れているんだ。でも、それを上手に説明できない。堂々巡りを繰り返して、お互いほとほと疲れたころに、私は絞り出すように行った。


「あなたを愛してないの、もう」


 ピエトロの顔が痛そうに歪んだ。私は、なんの権利があって、この人をこんなふうに傷つけているんだろうって思った。ピエトロは何にも悪くないのに。


「愛してないの、あなたも、この国も。もう、帰りたいの」私がそう言うと、ピエトロがバンっとテーブルをこぶしで叩いた。テーブルに端のほうに乗っていたコップが床に落ちて、がシャンと大きな音を立てて割れる。


「ちくしょう」とうめくように呟いて、ピエトロは部屋を出て行った。


 私が記憶してる限り、ピエトロが乱暴な態度を取ったのはあのときだけだ。


 ドアがバタンと閉まるのを聞いて、私はその場に泣き崩れた。涙と鼻水があとからあとから出てきて、獣の鳴き声みたいな声が自分の体からもれる。自分の体なのにコントロールが効かなくて、自分が壊れてしまったんじゃないかって思った。


 割れたコップを片付けたあと、テーブルやキッチンをきれいにした。それから、自分のものを全部スーツケースに詰めて、私はピエトロのアパートを出て行った。あのあと、二度とあの部屋に戻ることはなかった。


****


お題は「記憶」でした。


第一章終わります。第二章に続きますので、引き続きよろしくお願いします。

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