第14話 別れの予感

「しずか、まだ起きてたの?」


 明け方、仕事から帰ってきたピエトロに言われて、ノートパソコンから顔を上げる。目が乾いて痛いし、肩もガチガチに凝っている。


「なんだか眠れなくて」と私は伸びをしながら言った。


「そんなに根詰めてたら体に悪いよ。もう寝なよ」そう言ってピエトロが私を後ろから抱きしめる。


 もう、何回こんなやり取りをしただろう。春から初夏にかけて、私は毎日学校に入り浸って試験勉強をするようになった。家に帰っても、食事や家事をするとき以外はパソコンの前だ。おかげで無事に資格が取れて、晴れて卒業することになったけど、今は就職活動で忙しい。


「また不採用だった」とベッドに疲れた体を横たえながらピエトロに報告するのも、何度目だろう。手が勝手に目やこめかみを揉んでいる。


 履歴書を何社に送ったかもう覚えていない。前回と違って、書類審査で全滅ということはなかったし、最後の二人になったこともあったけど、まだ一社からも内定をもらっていない。ビザの期限があと数ヶ月しかないことを思うと、ゆっくりしたくても、気が急いてしまう。このところずっと、眠りが浅くて情緒不安定だ。


「しずかは、どんな仕事がしたいの?」その夜、ふいにピエトロに聞かれた。

「翻訳とか通訳の仕事だよ」

「それは知ってるけどさ、その、どんな会社がいいとか。翻訳・通訳にも、いろいろ種類があるでしょ? しずかの希望はなに?」

「そんなの、雇ってくれるところだったらどこでもいいよ」

「まあ、そうかもしれないけど。別に希望するだけだったら害はないんだし。『こうなったらいいなぁ』ていうのも、少し考えてみたら?」


 そう言って、ピエトロは私の眉間にそっと触れた。

「最近、この辺にずっとシワがよってる」

 そう言われて、私はあわてて顔の力を抜く。

「ピエトロが前に言ってた『最高のシナリオ』ってやつ?」

「そうそう。そういうの想像したら、少しは気分が明るくなるかもしれないよ」


 ピエトロにそう言われて、私はそもそも翻訳や通訳の仕事がしたいのかなぁと疑問に思う。嫌いじゃないけど、ピエトロの絵みたいに、情熱を感じてるわけじゃない。映画の字幕だとか、好きな小説の翻訳なんかできたらおもしろそうだな、なんて思うけど、そんな花形な仕事は最初からあきらめている。


「海の近くに住みたいなぁ」と私が言うと、ピエトロが笑った。

「仕事はこの際、なんでもいいや、て気になってるの」

「こんなにがんばってるのに。」そう言って、ピエトロは私の頭をなでる。私はピエトロを見つめて、へらりと笑った。

「海の近くの一軒家。小さい庭があって、柿の木があるの。夏は縁側に座って、スイカ食べて、タネを庭に飛ばして遊ぶんだよ」


 私は想像する。夏の蒸し暑い日に、青々とした葉を茂らせた柿の木を見つめている自分。スイカのタネを飛ばしているのは自分の子どもたちだ。女の子と男の子が一人ずつ。女の子のほうがお姉ちゃん。手に持ったお盆にカルピスの入ったグラスが三つ。かすかに潮の香がする。


「僕が前にルームシェアしてた家にも、柿の木があったよ」とピエトロに言われて驚く。

「え? 柿の木ってオーストラリアにもあるの?」

「あるよ、けっこう。見たことない? レモンとかライムのが多いけど」

「知らなかった……」

「海の近くだったら、どこがいいかなぁ。モーニントン半島とか、ウィリアムズタウンとかきれいだよね。高いけど。それとも、クイーンズランドのあったかいビーチの方がいいかな」

「……そうだね。あったかい方がいいな」


 優しく笑うピエトロのとなりで、私の心臓はドキドキして、頭の中がグルグルし始めた。思考がまとまらない。かろうじて「ピエトロ、もう寝よう」と眠そうな声を出して、私は目を閉じた。


 私がふと思い描いた景色は、日本だった。実際に行ったことのある場所じゃない。自分の中の故郷に対するファンタジーだ。絵本で読んだりアニメで見たことのある景色かもしれない。


 すごく疲れていた。10年近くオーストラリアに住んでいるのに、けっきょく私は、永住権もない外国人だということに。不採用になるたびに、自分は不必要な人間だと思い知ることに。夢を描けない自分が、夢と誠実に向き合っている人の隣にいることに。


 私がふと思い描いた世界。日本に帰って、結婚して、子どもを生んで、平凡だけど幸せな家庭を作っている自分。なんてつまらない、古くて平凡な女なんだろうって思う。でも、それでいいじゃないって思う自分もいるんだ。


 ずっと、何年も避けていた答えにやっとたどり着いた。もういいや、て思った。熱から覚めたみたいに。ねえ、ピエトロ。私の「最高のシナリオ」の中に、あなたはもういないんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る