第13話 ピエトロの過去

 合いカギを使って、ピエトロの部屋に入る。ピエトロは、物をよく失くしたり、だらしないところもあるけど、きれい好きだ。絵にホコリが付かないように、マメに掃除をする。洗濯は各自でやるから、私がやる家事はもっぱらキッチンまわり。


 流し台に、ピエトロが使ったままのお皿やフォークが置いてある。私はそれをていねいに洗う。キッチンが片付くと、私はピエトロの描きかけの絵を見に行く。ホコリがつかないように、裏返して置いてあるキャンバスを、絵の具が手に付いたりしないように気をつけながら、ゆっくりとひっくり返す。


 ヒョロリとしたネコが、路地裏の塀の上を歩いているところが描いてある。落書き、道に落ちているゴミ、汚水、それらと対照的にぬけるような青空。お嬢様のような毛並みの黒ネコ。色はまだ半分くらいしか入ってないから、完成までに、これからまだ一月はかかりそう。


「すてき」


 描きかけの絵を見て、独りごとを言う。そのとたん、涙がまた出てきて、私はピエトロの絵の前にうずくまって、子どもみたいに、えんえん泣いた。


 ピエトロが洗ってない食器だとか、描きかけの絵だとか、きれいに片付いた部屋だとか、ピエトロのことなら、私にはみんな、死ぬほど愛しい。


 私はピエトロが世界で一番好きで、もうどうしようもなくって、そのことが怖くてしょうがないんだ。だって、ピエトロにとって、私はすぐに取り替えのきく女かもしれないでしょ? ピエトロは、目に入るものを、すべて美しいと思う人だから。


 月曜日はピエトロの仕事がお休みの日で、買い物袋を抱えたピエトロが、夕方に帰ってきた。私が家にいるのを見て、ピエトロは目を丸くして、私をぎゅーっと抱きしめた。放り投げるように置かれた買い物袋から、玉ねぎがごろんと転がり出るのを見て、私は心からホッとした。


「きみの家に行こうかと思ってた。どうして電話に出ないの?」

「充電器をこっちに忘れてて。電源が切れちゃったんだ。ごめんね」と私は用意してたウソをつく。


 ピエトロの匂いをかぐ。ピエトロの髪の毛をさわる。ピエトロの口に、ほおに、おでこに、たくさんキスをする。猫みたいに、ピエトロの胸に顔をこすりつける。


「しずか、大丈夫?」とピエトロに聞かれて、私は「うん」とだけ答える。


 言いたいことも、聞きたいことも、たくさんあったけど、そのどれも口から出てこなかった。ピエトロもなにも言わなかった。そのまま、なにもなかったかのように、いつもの二人の日常に戻った。


 ピエトロは変わらず優しかったし、笑うと目尻にシワができた。そのシワを見ると、胸が苦しくなるほど幸せな気持ちになるところも、前とそっくり同じだった。そうやって、普段どおりの一週間が過ぎた。


「ピエトロ、むかし結婚してたって本当?」


 一週間の間、その台詞がぐるぐると私の頭を巡回して、私をすっかり疲弊させていたんだけど、ある朝、唐突に、その質問はベッドの上に落ちた。起き抜けにセックスをして、二人でのんびり過ごしていたときだった。


 ピエトロが真面目な顔になって「ルーシーに聞いたの?」と聞いた。

「うん。」

「なんて言ってた?」

「アジア人の女性と結婚して、その人が永住権が取れる前に離婚したって」


 一瞬の間が空いて、そのあと「そうだよ」とピエトロは短く答えた。それから言葉を探すように、しばらく逡巡した。


「アジア人っていうか、アジア系のアメリカ人だったけど。友だちだったんだ。どうしてもオーストラリアに残りたい、永住権が欲しいって困ってたから、協力したの」

「だったら、どうして離婚したの?」


 ピエトロは、眉間にシワをよせて黙ってしまった。口を開けて何か言おうとして、また口をつぐむ。


「その人と、寝た?」その質問に、ピエトロはバツが悪そうな顔をして頷いた。

「偽造じゃなくて、ちゃんと結婚して欲しいって言われたんだ。一緒に暮らして、子どもが欲しいって。でも、僕はそれは無理だって言った。そしたら、なんか怒っちゃって……」

「……嫌がらせとか、されるようになったの?」

「まあ、そんなとこ。だから離婚した。家族や友だちにも迷惑がかかってたから」

「すっっごく、大変じゃなかった? 離婚するの」

「うん……、まあ」


 相当な修羅場だったに違いない。多くは聞かないけど。言いたくなさそうだし。


「国に帰ったんだよね? その人。大丈夫だったの?」

「事情はわからないけど、アメリカだから、『自国に帰ったら殺される』みたいなことはなかったと思うよ」


「はあーっ」と私は大きなため息を吐いた。友だちと偽造結婚した上に、セックスしちゃうなんて、関係がこじれて当たり前だ。


「軽蔑した?」とピエトロに聞かれる。

「ううん。でも、いろいろ間違った選択をしたとは思う」

「バカだったんだよ。その自覚はある。後悔してる」


 私は目をつむって、ピエトロの肩に頭をもたせかける。起きたばかりなのに、なんだか、ひどく疲れてしまった。


「しずか。僕は、今までいっぱい間違ったこととか、悪いこととか、人を傷つけるようなことをしてきたんだ。すごく申し訳ないって思ってる。でも、しずかを傷つけるようなことは、絶対にしたくないって思ってるよ」


 私は目を開けて、ピエトロの顔を見た。それから、微笑んで見せる。


「しずか、愛してるよアイ・ラヴ・ユー

私も愛してるよアイ・ラヴ・ユー・トゥー


 ピエトロを世界で一番愛していることは、変わらない。でも、愛って万能じゃないよね。私の頭のものすごく冷めた部分で、何かが決定的に変わってしまったことがわかる。私はこの時点で、なにかをあきらめたんだと思う。なにかって、よくわからないんだけど。


(つづく)



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