第8話 最高のシナリオ

 あれから、なんとなくピエトロの部屋に入り浸っている。ルーシーのいる自分の家には、たまにしか帰らない。気がつけば、季節はすっかり変わって、秋も深くなっていた。


「一人暮らししてるみたい。」とルーシーに電話でからかわれる。

「土曜日の夜にいったん帰ってくるよ。ルーシーいる?」

「土曜日の夜に、私が家にいるわけないじゃない。出かけてるよ」

「またパーティー?」

「そんなとこ。ねえ、ジェシーが幸せそうで何よりだけど、ちょっとさみしいな」


 そんなふうに言われて、少しおどろいた。ルーシーは友だちがたくさんいて、私なんかいなくても平気だと思ってたから。


「日曜日にブランチでもする?」と私が聞くと、

「ブランチは無理。起きられない。」とルーシーに即答された。

「じゃ、晩ご飯つくるよ。一緒に食べよ。」そう約束して電話を切った。


 もうすぐ夜の十時を回る。ピエトロは仕事に出かけてしまって、いない。ライブハウスで閉店まで働いて、掃除をしてから明け方に帰ってくる。


 ピエトロの絵は、描けば必ず売れた。小さいものは日本円で数万円、大きいものは百万円以上で。それでも、一枚仕上げるのに、大きいものなら半年はかかるから、それだけで食べていくことは、できないみたいだった。生活費は、ライブハウスの夜のシフトをしてまかなっている。


「ピエトロの絵、もう少し高い値段で売ったらいいんじゃないの?」とピエトロに聞いたことがある。

「僕の絵がお金になるなんて、思ってもなかったんだよ。今よりも高い値段で買ってもらえるなんて、想像もできないなぁ」なんて、のんびりと答える。

「でも、今のままじゃ、絵で食べていけないじゃない」

「僕はね、好きなときに、好きな絵を描けるのがいいの。絵ばっかり描いてたら、頭がおかしくなっちゃうよ。だから、今の生活が気に入ってるんだ」

「ふーん。でもさ、将来のこととか考えたら、心配になったりしないの?」

「しずかは、心配するのが好きだよね」

 そう言われて、私は少しムッとする。


 建築家を目指していたけど、百社以上に履歴書を送って、ことごとく落ちた。今は翻訳と通訳の資格を取るための試験勉強にはげんでいる。


 資格が取れないかもしれない。資格が取れたところで、どうせ雇ってもらえないかもしれない。今度こそ、日本に強制送還かもしれない。— 私って、本当になんの役にも立たない、いらない人間なのかもしれない。そんな不安が、いつもBGMみたいに頭の隅のほうにある。


「しずかはさ、もう少し最高のシナリオを想像する練習したほうがいいよ」

「どういうこと?」

「『こうなったら、どうしよう』じゃなくてさ、『こうなったら、最高だな』ていう想像をするの。そしたら、そういうふうになる……確率が上がる」

「ピエトロの今の生活って『最高のシナリオ』なわけ?」

「そうだよ。好きなときに、好きな絵が描ける生活がしたいな、て思ってたら、そうなった。」

 ニコニコと屈託なくそう言われて、私は口をつぐむ。モヤモヤとした不安が消えたわけじゃない。でも、ピエトロみたいに生きてみたい、なんてちょっと思う。私は毎日、しなくちゃいけないことをこなすのが最優先で、自分がなにをしたいのかとか、実はよくわかってないんだ。


「家に帰ったら、しずかがいるし、これ以上なにも望めないよ」そんなことを言われて、私は明後日のほうを見る。ピエトロは、こういうセリフを照れもせずに言える人種なんだ。


「ありがとう。私も、あなたといるだけで最高よ」なんて言える女だったらよかったのかもしれない。そんな歯の浮くようなセリフは無理だから、私は自分の鼻をピエトロの肩に押し付けたり、頭をくしゃくしゃに撫でたり、キスしたりする。


「今週の土曜日の夜、一緒に出かけない?」とピエトロが言う。

「バイトは?」

「シフト代えてもらった。昔の知り合いにパーティーに誘われたんだ。一緒行かない? しずかの家の近くだったと思うよ」

「うーん。パーティーの前に、外でご飯食べようよ。パーティーは苦手だから、ちょっと顔出すだけでもいい? そのあと、家に帰ろうかな」

「いいけど。しずかが家に帰ったら、さみしいな」

「どうせ朝までやってるんでしょ? そのあと私の家に来たらいいよ」

「そうする。完璧だね。楽しみだ」


 本当は、ピエトロとずっと、こういう生活が続けられたらいいなぁと、思ったことは何度もある。ピエトロに結婚してもらったら、ビザの問題は解決する。そしたら、就職もすんなり決まるかもしれない。でも。でも。


 結婚だなんてまだ考えられないし、そんなにうまくいくはずないって思う。なんの取り柄もなくて、美人でもない私を、ピエトロがどうして好きになってくれたのか、本当に不思議なんだ。それに、こんな不安定な生活、ずっと続けられるわけがない。


 ピエトロの言うような「最高のシナリオ」、本当はいつだって頭の中にパンパンに詰まってるんだ。ピエトロが思ってるよりも、ずっと欲張りで、他の人が聞いたら「バカじゃないの?」て思うようなシナリオを。でも、そんなのは妄想でしかないでしょ? ピエトロは大人のくせに、フワフワとしてて心配になる。だから私が、ちゃんと予防線を張らないといけないんだ。現実はそんなに甘くないって。

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