第7話 僕が結婚しようか?
私はオーストラリアの国籍も永住権も持っていない。16歳で渡豪して、高校卒業後、メルボルンの大学に進んだ。父はその時点で日本に戻り、私は学生ビザで大学に残った。
建築家を目指していた私は、鬼のような課題をなんとかこなして卒業したけど、就職はことごとく不採用だった。もともと競争率の高い職業だ。卒業したばかりで未経験の人間を雇ってくれるところは少ない。私の場合、雇う側が私の就労ビザをスポンサーしなければいけないという、大きなネックがあった。
どうしても日本に帰りたくなかった。「性格が日本に合っていない」と両親に言われるほど、私はいつも浮いていた。あの中にまた戻って、うまくいく自信がなかった。
両親を説得して、私は違う学部に入り直した。国際学部に入って、翻訳や通訳の資格を取る勉強をすることにした。翻訳・通訳は、就労ビザをスポンサーしてもらいやすい職業の一つだと言われてたのが、一番の理由だ。
「卒業して就職が決まらなかったら、今度こそ日本に帰らなきゃいけないんだ」と私はピエトロに説明した。
「どうして?」
「私のビザが学生ビザだから。学生じゃなくなったら、この国にいられないの。就労ビザとか、他のビザがないと。これ以上、学生続けられないし」
「卒業はいつ?」
「今年の末だから、あと十ヶ月。ビザの期限はその後も少しあるけど」
「コーヒー飲む?」
「え? ……飲む」
急に話題を変えられて、ぽかんとしている私のために、ピエトロが、小さいヤカンみたいな道具をコンロにのせる。それがコポコポと音を立てるとすぐに、火を止めて茶色の液体をマグに注ぐ。
「ミルクとか砂糖いる?」
「ミルクはたくさん。砂糖は一つで」
「了解」
コーヒーのいい匂いが部屋に充満する。私はシーツをズルズルやってまたベッドに戻った。昨日から脱ぎっぱなしの服はしわくちゃで、まだ湿っている。ここに乾燥機なんかあるんだろうか。そんなことをぼんやり思っていると、ピエトロがコーヒーを持ってベッドに入ってきた。
「僕が結婚しようか?」と言われて、私はコーヒーをこぼしそうになる。
「ごめん。そういうつもりで言ったんじゃないの」と私があわてて言うと、ピエトロはニコニコしていた。
「ピエトロ、そういう冗談、ちっともおもしろくない」
「冗談で言ってないよ。それで君がここにいられるんだったら、いいじゃない」
「偽造結婚ってこと?」
ピエトロは、私の質問には答えずにコーヒーを美味しそうに飲んだ。
出会ったときから思っていたけど、ピエトロはつかみどころがない。真面目な話をしているかと思えば、急に冗談を言う。冗談を言ってるのかと思えば、大真面目だったりする。神妙な顔で教えてくれたトリビアが、実は口からでまかせだったりもした。何時間も話したのに、ピエトロのことを実は何も知らないんだと気づく。
「ピエトロって結婚してたりする?」と私が聞くと、今度はピエトロがコーヒーを吹きそうになる。
「結婚してるように見える?」
いかにも一人で暮らしてそうな部屋を見回して「見えない」と私は言う。
「しずかは?」
「え? 結婚してるように見える?」
「ぜんぜん」なぜかニヤニヤ笑いながらピエトロが言った。
「恋人はいる?」なぜ笑われているかわからないまま、ピエトロに聞く。
「しずかって、初めて会ったときから思ってたけど、おもしろいよね」
「え?」
「次に何を言い出すか、まったくよめない」
それはこっちのセリフだ。
「ねえ、しずか。初めて会ったとき、僕が眠ってる間に、君はいなくなってたんだよ。覚えてる?」
「え、本当? ぜんぜん覚えてない」
「連絡先も教えてくれなかったし、どうやったらまた会えるんだろうって思ってた。そしたら、意外と早く会えたね。僕はすごく運がいい」
ピエトロは私のマグを取り上げて、ベッドの横に置くと、私を抱きしめた。私の肩にアゴを乗せて、優しく頭をなでる。肩のあたりでストンと切りそろえられた黒髪に、指を差し込まれて、私の心拍数がまた上がり始める。
「僕は結婚してないし、恋人もいない。それから、君のことがすごく好き。他に知りたいことある?」
耳元で、ピエトロがそう言うのが聞こえて、私は世界一幸せな気持ちで目を閉じる。
「ラストネームを教えて」と私が言うと、ピエトロはまた笑った。
(つづく)
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