第6話 もらい泣き

 電車に乗って三つ目の駅で降りた。二人とも傘を持ってなかったから、駅からピエトロの家まで手をつないで走った。ピエトロのワンルームのアパートにたどり着く頃には、二人ともずぶ濡れだった。中に入ると、ピエトロがすぐにバスタオルを貸してくれた。


 ピエトロがワシワシと自分の頭をバスタオルで拭きながら、「あったかいお茶でも飲む?」と聞いてくれる。二月末、南半球は夏の終わりで、日中どんなに暑くても、雨が降ると急に気温が下がる。


「後でいい」自分の髪を乾かしながら、私は笑って言った。走った直後でまだ鼓動が早いのと、なんだか照れ臭いのとで、意味もなくクスクス笑いがこぼれてしまう。それにつられてピエトロも笑った。


 アパートの片隅に、イーゼルが置いてあるのが目に入った。キャンバスが裏返しにしてかけてある。


「ピエトロ、絵描くの?」

「そうだよ」

「あれ、製作中のやつ?」

「うん。もうほぼ完成してるけど」

「見てもいい?」


 ピエトロが、背後からぎゅっと抱きしめてきた。ベタベタに濡れたTシャツの下から手を入れてくる。冷え切った手がくすぐったくて、私はまた笑う。


「本当に、興味ある?」ピエトロが耳元で聞いてくる。

 私はふり返ってピエトロの目を見つめた。

「うん。本当に、見てみたい」

 ピエトロの指が私の胸の先端をさわって、私は深いため息をついた。

「でも、後でいい」と私が言うと、ピエトロは私の口を自分の口で塞いだ。


 ピエトロの唇は冷たいのに、口の中はとても暖かい。口からアゴ、首筋、鎖骨、とピエトロが唇をゆっくり下へ移動させている間に、私は彼の頭をそっとなでる。まだ湿った髪の中に顔を埋めて、彼の匂いを思い切り胸に吸い込んだ。ピエトロの髪は柔らかいくせ毛で、雨と汗とホコリが混ざったような匂いがする。


 自分の口から猫の鳴き声みたいな音がもれる。自分が全く意図していないタイミングで、その声は大きくなる。頭が考えるよりも早く体が反応してしまう。まるで、自分の体が自分のものでないみたいに。でも、きっとこっちが本当の自分なんだ。


 何かに急かされるように、体に張り付いた服を脱いで、いつ洗ったのかわからないようなヨレヨレのシーツの上で体を重ねた。私が左足でシーツのシワを蹴飛ばすと、ピエトロの右膝が新しいシワをつくる。ピエトロを抱きしめながら、私はなんども肺の空気を入れ替える。ピエトロと一緒の空気で細胞の一つ一つを満たすために。


 どうしてあんなに長い間、おしゃべりなんてできたんだろう。本当は、ずっとこうしたかったのに。本当にしたいことがしたいと言えない大人は、何時間も照れ笑いしながら、予定調和のお芝居を続ける。


 翌朝、眼が覚めると、ピエトロが私の顔をじっと眺めているのが視界に入った。

「おはよう」と私が言うと、ピエトロが私の目を見て、「Beautiful」と言った。私はファニーフェイスで、ちっとも美しくなんかないのに。

「みんなが美しくなければ、誰も美しくない」照れ隠しに、覚えたばかりの格言を口にすると、ピエトロはさもおかしそうに目尻にシワを寄せた。


「ねえ、あの絵、見てもいい?」私が部屋の隅にあるキャンバスを指して言うと、「いいよ」とピエトロはベッドから降りて、絵をくるりとひっくり返す。ベッドの中から、キャンバスを見ると、サッカー選手がガッツポーズをしているところが見えた。


 シーツを体に巻いてズルズルやりながら、キャンバスの近くへ行く。パッと見、写真と見間違えそうなその絵は、サッカー選手が咆哮をあげている様子をアップで映し出していた。飛び散る汗や髪の毛の一本一本まで、写真よりも生き生きと、精巧に筆で再現してある。感極まったその顔の、ギュッと閉じた瞳から涙が一筋流れている。


 彼が今まで乗り越えてきたアスリートとしての試練と、これほどの技術を習得したピエトロの努力が重なる。この人はきっと、気が遠くなるほどの時間を費やして、絵を描き続けてきたはずだ。ピエトロの絵には、真剣な祈りを目の当たりにしたような、人の胸を打つパワーがあった。


「これ、まだ未完成なの?」

「そうだね。もう少し、服のシワとか髪の毛とか、細部を足さないといけない」

「あとどのくらいかかりそう?」

「もう、あと一週間かからないと思うよ」

「まだ、そんなにかかるの」

「うん。ねえ、どうしたの? 大丈夫?」

 一筋、静かに流れ出た私の涙を、ピエトロが親指で拭く。

「この人の顔見てたら、なんかもらい泣きしちゃった」

 ピエトロの目尻に、またシワがよる。

「気に入った?」

「この絵が美しくなかったら、ほかの何も美しくない」と私が言うと、ピエトロは声に出して笑った。


 その愛しい目尻のシワを、指でなぞるために手をのばした時、私の胸がチクリと痛んだ。会ったばかりなのに、もう「ずっと一緒にいたい」だなんて、ふと考えてしまったから。のばした手は行き場を無くして、太ももの上で小さなコブシをつくる。


「ねえ、ピエトロ。私、もうすぐ日本に帰らなきゃいけないかもしれないんだ」


(つづく)

 

****


お題は「もらい泣き」でした。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る