第2話 天体観測

「イタリア語の名前だったのに、英語名に変えられちゃった小学生って、自分のクラスにもいた?」


 ふと思いついてピエトロに聞いた。


「ううん。僕が小学校のころは、もうそんなことはなかったと思う。直されたのは僕の父。ジョヴァンニがジョンに直されたの」


 学校の先生に名前を直されるなんて、その小学生はどんな気持ちだったろう。


「ひどい話ね」と私は言った。ピエトロは片眉を上げて、ニヤッと笑った。


「僕はね、小さいころはピーターって名前でよかったと思ってたよ。普通のオーストラリア人になりたかったから。両親の英語になまりがあるのも恥ずかしかったし、イタリア語の勉強も大嫌いだった」

「ふーん」

「二年前に両親の故郷のシチリア島に行って、びっくりしたんだよ。とても美しくて。貧しい部分もたくさんあるけど、何を食べても美味しくて、豊かな歴史があってね。親戚のみんなに『ピエトロ、ピエトロ』って優しくしてもらってるうちに、『ピエトロ』になろうって決めたの」


 きっと、オーストラリアのご両親も親戚も、かなりイタリアンな家族だったんだろうなと想像がつく。わざわざ改名するなんて、自分じゃ考えられないことだけど、なんとなく気持ちがわかるような気がする。


「私ね、日本の名前は『しずか』って言うんだ」と私が言うと、ピエトロは口の中で小さく「しずか」と言った。それは、「し」の発音がとても英語っぽい「しずか」だ。私は、自分の名前を英語の文に入れるとき、どうしても英語風に発音してしまう。


「こっちじゃ、みんな発音しにくそうだし、覚えてもらえないから『ジェシカ』って英語名を自分で付けたの。だから、みんな『ジェシー』って呼ぶけど、日本だと『しずか』なんだ」

「ふーん」

「私ね、『ジェシー』のときと『しずか』のときと、二人自分がいるような気がするの。どっちも自分みたいで、どっちも自分じゃない感じ」


 私は十六のときにオーストラリアのメルボルンにやってきた。父親の転勤について行く形で。高校になじめなくて孤立していた私のことを、両親は「性格が日本に合ってない」と言っていた。いろいろな文化が混じり合うメルボルンなら、うまくやれるはずだと思っていたみたいだ。


 実際には、メルボルンの高校でもぜんぜん友だちができずに卒業してしまった。大学に入ってから、少数の友だちと恋人ができた。仲良くなれたのは、ニュージーランドだとか、韓国だとか、オーストラリアの外からやってきた人たちばかりだ。


 日本にいても、オーストラリアにいても、私はいつも外国人なような気がしてしまう。「ジェシー」と「しずか」の間を、迷子のように頼りなく行ったり来たりしている。


 ピエトロだって、ピーターとピエトロの間で迷うことはなかったのかな。「ピエトロになる」と決心したのは、ジョヴァンニのような子が経験した、理不尽さへの反抗だったんじゃないか……なんて思ったりする。


「ねえ、きみのこと『しずか』って呼んでいい? そのほうがかっこいいよ」とピエトロが言う。

「そうかな」

「ちゃんと、日本語の発音を教えてよ。どう言うの」


 私は、英語風にならないように気をつけながら、日本人に向かって言うように「しずか」と発音した。


「しずか、しずか」とピエトロが練習する。それは、ちゃんと日本語の発音だった。でもやっぱり日本人の発音とは少し違っていて、すごく魅力的な名前に聞こえた。


「しずか、しずか」とピエトロが私の名前を呼ぶ。くすぐったくて、私はクスクス笑った。まるでそっと頰でも触れられたような、耳に息を吹きかけられたような、気恥ずかしい気持ちになる。


「ピエトロの発音も教えてよ」と私は言った。何度も名前を呼ばれて、なんだかモゾモゾしてきたから。


 ピエトロは、イタリア語風に「ピエトロ」と言った。どうかピエトロの名前を発音できますように、と願いを込めて、私はその名前を丁寧に発音した。


「ピエトロ、ピエトロ。合ってる?」

「もう一回言ってみて」

「ピエトロ」

「もう一回」

「ピエトロ」


 ピエトロもクスクス笑い始めた。それから、軽く唇を重ねてきた。私たちは一瞬目が合って、それから一緒に吹き出した。二人で寝転んで空を見上げながら、涙が出るくらいゲラゲラ笑った。


「しずか」「ピエトロ」「しずか」「ピエトロ」とお互いの名前を呼び合って、口や鼻やおでこやほおに何度もキスして、また思い出したように笑った。


 マリファナの匂いに混じったピエトロの匂い。キスをするたびにチクチクする無精ひげ。生暖かい夏の風。やわらかい芝生の肌ざわり。天上に輝く月。「しずか」と呼ぶ声。


 二人とも酔っ払いでハイだった。天体観測をしながら、くだらないことを延々としゃべってはキスをして、お腹を抱えて笑い合った。夜が明けるまで。


(つづく)

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