第13話 雲に透ける月明かり 下

 恵の通う小学校は比較的最近建て替えられているが、その中は住村が通っていた時と大差ないように見える。廊下には原色丸出しのパステル調の色紙に描き殴ったような作品が名簿順に並べられている。住村は自分の娘の作品がどこにあるのか興味はあったが、どこからか子供たちの声が聞こえてくると、後で娘に教えてもらうとして先に教室の方へと歩いて行った。表に出ているクラスを何度か見て、間違いがないことを確認した。そこで間違いはないのだが、入るのに何となく躊躇してしまう。意を決してかがむようにして中へ入ると、子供たちの視線がちらちらとにこちらに向いた。住村は背筋を伸ばして視線を返すと、恵の姿を探した。朝に見た服のピンク色を見つけるとそちらの方を見たが、恵は下のほうを向いて視線を合わせようとしない。ふと、保護者のほうを見ると自分と同じように着慣れない服を纏った人たちがいたのでお互いに会釈した。娘の担任を見ると彼女もまたクリーニング上がりのスーツを着ていて、化粧の匂いがこちらまで通ってきそうなほど目立つ口紅をつけて授業を進めていた。住村は空いているスペースに立って改めて教室を見渡すと、視線を動かす必要もないほどに狭いスペースと、低い机が目に付いた。まるでままごとでもしているような中で担任の声と子供たちの笑い声がこだまする。娘の後姿を見ながら自分の小学校時代が脳裏に浮かんでくる。恵は黒板に書かれたことをノートに書いては隣の子と目配せして一言二言話したり笑ったりしていた。その相手に男の子がいないことにほっとしながら小さな背中を眺めた。先生が計ったように質問をすると全員が声を出して手を挙げた。元気よくこだまする声の中で恵も精いっぱいに腕をあげた。三月生まれの恵は周りに比べて頭一つ分小さい。住村には娘のところだけ少し引っ込んでいるように見えるが、その力のこもった指先を見ていると、先生にあててほしいと願った。

「はい、谷君」

「2です。2です。2でーす」

 谷君が勢いよく答えると子供たちの笑い声が鳴り響く。先生はわざと両手を組んで怒ったふりをする。

「こら、答えるときはちゃんと答えなさい。でも、正解よ」

「やった」

 谷君は嬉しそうに笑って保護者のほうを振り返った。住村がその視線の先を追うと恰幅の良いパーカーに色落ちしたジーンズをはいた男が手を握りしめてガッツポーズをした。普段なら住村とは関わりのなさそうな人に見えるが今は同じ立場で自分の息子を応援している。そう思うと住村は彼らに軽い親近感が湧いた。谷君は隣前後のクラスメイトからからかわれていたが、谷君は後ろの保護者の方を指さして背筋を伸ばすと、他の生徒たちもまた前を向いた。恵の方を見ると、娘もこちらのほうを見ていた。住村は一つ大きくうなづくと恵は安心したように前を向いた。先生はそれでリズムをつかんだのか次々と質問をしては子供たちに答えてもらい、父親たちも満足そうにその姿を眺めていた。住村は自分の娘があたるその瞬間を見逃してはいけないと緊張した面持ちで立っている。

 恵が横の子から鉛筆でつつかれて横を向いた瞬間に消しゴムが机から転がり落ちた。横の子は指で消しゴムを指さしてそれを拾いに行こうとしたが、恵はそれを手で制して自分で取りに行った。ちょうど机の脚の所に引っかかっていたのでそれを取るのに少しだけ時間がかかったが、何とかそれを手の中に入れると、何事もなかったように前を向いた。

「はい、次の問題わかる人」

 先生が満を持したように振り返って子供たちに質問した。皆競うように手を挙げている中で恵だけじっと動かない。周りが声を出す中で横目で住村のほうをちらっと見た。住村は娘がどうするのか腕を組んで見守っていたが、肩をすくめて頭を引っ込めるように固まったまま後姿しか見えなくなった。先生はクラスの全体を見渡して、一度もあたっていない生徒を指名した。当たった生徒は元気よく立ち上がって返答した。生徒はすこし恥ずかしそうに、でもどこか誇らしげな顔をしてガッツポーズをした。その大げさなリアクションにクラスは笑いに包まれたが、住村はまっすぐに丸まっている背中を見つめていた。

 恵は黒板を見ることもほとんどなくなって、手元をじっと見つめていた。かろうじて手を動かしてノートを取っていたが、先生が質問をしても挙手することすらしなくなってしまった。住村は娘が心配のような、じれったいようなまるで自分まで劣等生のレッテルを張られたような気になっていった。自分でも無意識のうちに片足を貧乏ゆすりのようにならしてカタカタと音を出していたが、もう隣の保護者がこちらのほうに注意を払うとかそんなことはどうでもよかった。


「いったいどうしたんだ? 途中からちゃんと聞いてなかっただろ」

 住村が聞いても恵はそれに応えない。

「言葉にしないとわからないだろ」

「だって・・・・・・」

「パパ、今日は期待してたんだぞ」

 住村は恵の正面に立って返事を促す。昼の日差しが恵の帽子に影を作って、中の表情まではうかがうことができない。

「あれくらいの問題がわからないわけじゃないだろ。何のために塾へ通ってるんだ」

「だって。パパが・・・・・・、すごいにらみつけるから」

 恵は震えるような声で何とか絞り出す。

「人のせいにす・・・・・・」

 住村は自分でしゃべっていてハッとした。自分のあごに手をあてて、あの時自分がどんな表情をしていたのか思い出そうとした。しかし、どれだけ考えてもそれを思い出すことができない。

「ごめんなさい」

 恵が涙をこぼすまいと必死に歯を食いしばって瞬きをくりかえしたが、それでもあふれてくるものを抑えることができなかった。地面にぽたぽたと零れ落ちてシミをつくる。

「いや、私が。パパが悪かった」

 住村はあわててしゃがむと、真っ赤になった娘の顔が目に入った。何か拭くものはないかと上着のポケットを探したが、そんなものはどこにも入ってない。ランドセルの中に入っているのではと聞くとうなづいて返事をしたので、そのままランドセルを受け取って中のハンカチで顔をぬぐってやる。やわらかく小さな肌を傷つけないようにこすらないようにゆっくりと押しあてた。しばらくすると恵は落ち着いて呼吸も落ち着いてきた。それで住村はようやく安心してそのままランドセルを背負った。空いている手のほうで恵の手を握ると、暖かい手が握り返した。恵が歩くのに合わせてゆっくりと歩き出すとその手を強く握った。

「パパはそんな怖い顔をしてたの?」

「うん。角が生えていると思った」

 恵が笑って冗談を言った。

「あんな顔してるの見たことなかった」

 ふと、その時会社のことが思い浮かんだ。自分が部下を叱咤する声が頭の中に鳴り響く。部下は両手をぎゅっと握りしめて自分の声が終わるまで微動だにしない。彼がこの後何をしたのか気になったが、それは記憶のどこを探しても見当たらない。次に移るのはいつもパソコンの画面で、下を向いている部下のことなんて考えたこともなかった。今、隣を向くと恵と目を合わせることができた。いつも以上に力を入れて笑顔を作ると、返してくれた。

「今日のご飯は何かな」

「ハンバーグって言ってたよ、お願いしたら作ってくれるって」

「昼から豪華だな。じゃ早く帰らないとな」

 二人は家で待っているであろう家族のことを思いながら歩いて行った。

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