第11話 雲に透ける月明かり 上
「ここずれてたらおかしいだろ。昼までに修正して」
住村は書類を投げ出すように突き出すと、机を挟んで立っていた男にそれを受け取らせた。住村は左手を机の前に突き出しながら、目線はパソコンのほうに写っている。部下がすぐに受け取らなかったのか、住村はイラつきを隠すことなく書類を投げ出すように押し付けて自分の作業に戻った。
住村は時計を見ながら周りの部下に指示を出して各人の進捗を確認して、机の上に束になっている書類を取ると、そのまま部屋を出て担当の役員と打ち合わせに行った。彼が出ていくと部屋の空気が弛緩したように暖かい空気が流れる。もちろん住村はそのことも把握していたが、今はあえて指摘しない。それは彼らに気を使って息抜きをしてもらいたいということではなく、結果さえ残せばそれで構わないと考えているからであった。もちろんその空気が住村にとって看過できるものではないので何か決定的なミスを捕まえたときにはその分たっぷり絞ってやろうと虎視眈々と狙っていた。
そんな住村だから周りに仕事仲間といえるような存在はいなかったが、そんなことを意に介するようなことはなく、寧ろプライベートが入ってくることによって仕事に支障をきたすことのリスクのほうが問題だった。仕事において最も重要なのはミスをしないこと。加点をするようなことはなくとも、減点されないことに重点を置いてきた。現にそのおかげで住村は社内で出世頭とは言わないまでも確固たる地位を築いていた。住村に役職がついて部下ができるとなったときに一番最初に頭に浮かんだのはリスクが増えるということだった。だから住村は徹底的に部下の仕事を管理することに注力した。そのおかげで部下たちのミスが部署の外に広がることが防げるようになっていたはずで、煙たがられていることはあるにせよ、残業も減っているのでそれでトントンになっていると考えていた。
仕事を終えるとすぐに部下たちの仕事を確認して問題がなければすぐに退社する。その後どのようにして過ごしているのか誰も知らない。昔、話好きの上司に色々聞かれたが、頑なにそれを話すことはしなかった。さすがに結婚して子供がいることは知られているが、それすらも話題にすることはめったにない。上役との話の中聞かれたことだけ答える程度のことで済ませていた。帰りには妻へ連絡して駅前で必要な物があれば買い出しをするし、週に何度かはジムにも通っている。たまにカフェに入って珈琲を楽しむこともあるがそれも住村のルーティンワークのひとつでありきちんと管理されていた。
しかし、彼が管理しているのはここまでのことで玄関のドアを開けたらその仮面を外す。
「ただいま。朝食のパンがないってことだったっけ。これでいい?」
「うん、ありがと。あなたここのパン好きね」
住村は駅前にある少し高級志向のパン屋に寄っていた。
「何かわからないけど、香りがいい気がするんだ。それに僕の時間には割引もやっているからお得だし。嫌いだった?」
「ううん。私も好きよ、ここのパン。普段は高いからあんまり使わないけれど」
「だろ。恵も好んで食べてたからな」
住村は妻の太鼓判をもらって満足そうに一日の汗を流した。冷蔵庫にはラップに二人が夕食に食べたコロッケが入っていたのでそれを肴に発泡酒を取り出して一人で晩酌を始めた。リビングでは妻の陽子がドラマを見入っている。丸くなっている背中越しに住村も番組を何となく眺めながら夜の時間を過ごす。遠くで車の走っている音が空気を揺らす。住村は空になった発泡酒を名残惜しそうに傾けながら喉を鳴らして、空になった皿を持ってキッチンで洗い物をした。ついでにシンクに残っていたコップも丁寧に洗ってかごに干す。手つきは慣れたもので手早くそれを済ませる。ふと、顔を上げたとき陽子と目が合った。
住村は口の筋肉に力を入れて何か返事をしようと思ったが、それは声にならず片手を上げて応えた。
「足りなかったら、ミカンがあるわよ。私も食べたいから一つ取って」
「ああ、わかった」
自分で何を言おうとしていたのか照れ臭くなって視線をミカンのほうへと向けた。一つ大きく息を吐いてミカンを二つ持ってリビングのソファへ腰かけた。
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