それでも
増田朋美
それでも
それでも
ある日、蘭はいつも通りにお客さんを相手に、その背中に大きな花を彫って、お客さんと世間話をしていると、いきなり蘭のスマートフォンがなった。何でもメールではなく、電話アプリがなったのである。蘭はお客さんがいるので、その時は出ることができなかった。お客さんに彫る代金の二万円をもらって、領収書を書いて、次回の色入れの予約を取らせ、お客さんを玄関先へ送り出し、やっと時間が空いた蘭は、今日もよくやったと思いながら、テレビでも見るかと思って、居間に戻ってきた。と同時に、ピピピと音がなって、電話アプリが蘭に声をかけた。
「はい、もしもし。」
蘭は急いでスマートフォンをとる。
「先ほども電話をかけたんだけど、どうして相手をしてくれなかったのかな?」
電話の相手は、誰だろうと蘭はすぐわからなかった。最近は電話というものを使ったことがなかったのだ。ほとんどラインかメールばかりで、電話をよこしてくるお客さんもいないのである。
「ああ、すみません。ちょうど、刺青を彫る仕事をしていました。」
蘭は急いでそう返す。
「仕事しているんだったら、留守電に仕事中だって入れればいいじゃないか。いつまでも、電話に出ないで放置しておくのは、一番相手に失礼だよ。」
という人物は誰なのか、蘭は見当がつかない。
「あの、どちら様でしょうか?」
とりあえずそう聞いてみる。
「どちら様じゃないよ。蘭、電話番号を登録していないの?僕だよ、高野正志。」
そう答える相手に、蘭はやっと、ああ、君だったのか!とやっと、だれだか分かった。マーシーこと、高野正志だったのである。
「ああ、ごめんごめん。マーシーだったのか。失礼いたしました。ごめんな。僕もつい仕事に夢中になって。」
と、蘭は申し訳なさそうにいった。
「まあ、お前の事だから、仕事に夢中になりやすいタイプだもんな。それはしょうがないか。で、どう?元気でやってる?体壊したりしていないかい?」
マーシーに言われて蘭は、
「ああ、大丈夫だよ。最近は寒暖差が激しいが、仕事ができることを感謝して、生きているよ。」
と、答えた。
「そうか。其れならよかった。蘭、電話をかけたのはね、ファッション関係の仕事をしている君ならどう考えているか、ちょっと教えてもらいたいんだ。実は、昨日、公民館でピアノサークルを開催したんだが、その時に、日常から離れるとか、新たな自分になるという意味で、着物を着る人が多い。それ自体は別に問題はないんだが、その中でメンバーの女性一人が、なんでも派手な銘仙の着物でやってきたんだよ。ご主人には、派手すぎるからやめろと言われたそうだが、それでも着てみたいから着てみたというんだ。ほかのメンバーさんにも対象年齢が合うかどうか、確認をしたりして、次回は別の銘仙を買ってくるとまでいうんだよ。」
マーシーは、電話口で事情を語り始めた。
「そうか。それはいけないな。銘仙というのはもともと部屋着だからな。其れを人前で着用してしまうのは、まずいだろう。其れに、歴史的な背景もあるし、やめさせた方が良いと思うよ。」
と、蘭はとりあえず自分の意見を言ってみる。
「確かに答えはそうなんだ。でも、僕が主催しているサークルは、皆訳ありの人ばかりで、一筋縄では、納得のいかない人ばかりだ。中には妄想がある人もいる。そんな人にどうやってやめろと言えるだろうか。其れが問題だ。ぜひ、きみの意見を聞きたい。蘭、どう思う?」
と、マーシーは言っている。
「ちゃんと史実を言えば良いじゃないか。そんなこと、ラッパーの服装をまねしているだらしない奴らと同じだと言えばいいんだよ。貧しい人間の真似なんて誰でもしたくないだろ。そうじゃなくて、ピアノのサークルに来るんだったら、訪問着とか、付け下げとか、そういうものを着用する方が良いと、言い聞かせることも必要ではないのかな。」
と蘭は言うが、マーシーの次の文句を聞いて、ドキッとしてしまった。
「そうだけど、蘭はかわいそうに思わないかい?長年外に出るのが怖くて、ご両親からどうしたらいいのか、相談を受けていたりもしたような人が、銘仙の着物を着ることによって、外へやっと出るようになったんだよ。其れを、やめさせるとなれば、又彼女は不安定になるかもしれないじゃないか。そういうことにもなるんだよ。」
「そうか、、、。そういうことか。それはつらいな。彼女が、銘仙の着物を買ったときに、ちゃんと部屋着として着るようにと、呉服屋さんも注意をしなかったんだろうかね?」
蘭が急いでそういうと、
「それが、ネット通販で買ったというんだ。ウェブサイトに注意なんかどこにも書いてないよ。」
と、マーシーは言った。最近はリサイクル着物の通信販売もよく行われているが、何処へ着ていくとか、やってはいけないこととか、そういうことをはっきり明記していないということは、問題点である。着物には、種類がいろいろあって、どこへ着るかとか、いつ着るか、誰が着るか、とか、そういうことは明確に決まっている。着物であればどこでも行けるということは絶対にない。
「そうだよな。其れは僕もわかる。外国人でもない限り、呉服屋もそういうことは教えないよ。儲からなくなるからということもあるが、日本人ならわかっているだろうと、油断している店が多いんだろうな。」
と、蘭は言った。
「そうだよなあ。最近は、オペラ鑑賞に黒喪服に金の帯をつけて現れる人もいるんだそうだ。これはまずいと注意する人もいないらしい。色無地の黒のバージョンとでも思っているんだろうか。葬式に着ていくような着物を、音楽鑑賞に使うっていうんだから、困るよな。」
マーシーはそういって電話先でため息をついた。蘭にしてみたら、信じられない話だが、実際黒喪服を黒留袖と勘違いしたのか、黒喪服に金の帯をつけて劇場などに現れてしまう人もいる時代なのである。外国人がそうしてしまうのは仕方ないと思うが、日本人でもそういうことをする人が居るというから驚きだ。
「そうか。着物はそれくらいしか価値がないというか、教える必要もないとでも思っているのかなあ。其れなら呉服屋も商売を放棄していることになるぜ。」
蘭もやれやれという口調でいった。
「そうなんだよな。やってはいけないことはやってはいけないって、ちゃんと伝えないといけないよな。しかし蘭、もう一つ問題があるんだ。同和問題の事があるから、銘仙はサークルでは着ないようにしようと言われても、同和問題は解決済みだと勘違いされては困るからね。そのあたりの説明をするのも又、難しいなあ。」
マーシーはそういうことを言っていた。蘭はそれも確かにそうだと思った。同和問題の事なんて、今の若い男女は知らないことが多いだろう。学校の授業でも同和問題の事は教えないことが多いし、生徒もきこうとしないというか、覚えようとしない生徒が多いから。
「そうだよなあ。具体的に同和地区の人が近くにいるわけでもないからな。そこらへんは自分には関係ないって、若い人は片付けちゃうかもしれないな。其れに、注意するのは、命がけという時代にもなってるしな。」
「いやあ、そこら辺は大丈夫だと思うが、彼女がせっかくおしゃれをしようと考えているのに、それをつぶすような注意をしなければならないのがつらいよ。」
「マーシーらしい言い方だな。」
と蘭は言った。
「お前らしい。そういう事で悩むなんて、優しいお前じゃないと悩まないよ。」
「まあそんなことないよ。必ず誰かが伝えなければならないことじゃないか。見てみぬふりをするのが一番悪いよ。もしかしたら、間違いをしている当事者よりもね。」
マーシーはそういっていた。
「そうか。やめさせなきゃいけないのは、年長者の務めかもしれないな。よし、それじゃあ、僕も協力する。僕も、ピアノサークルに行くよ。彼女が又銘仙の着物を着て現れるようであれば、僕がしっかり注意するから。マーシーも、僕と一緒に説得してくれ。」
蘭は電話口でそういっている。しばらくマーシーは静かになった。まだ、決断出来ていないようだ。そうだねえと言いながら、何か考えているようであった。
「蘭は、いざとなると、そういうことが言える男だな。男ってのはそうじゃなくちゃいけないな。」
「だって、伝統的に言ったら、銘仙とはそういうものだ。今の子はかわいいからとか柄が面白いからとか、おしゃれ着として平気で着ているが、伝統的に言ったら、室内着くらいしか着用されてなかったし、差別的に扱われていた人の着物でもあるわけだから、それはちゃんと伝えないとね。」
蘭は、一生懸命マーシーを説得した。でも、マーシーが、根拠のある事でないと、なかなか納得してくれない性格なのは、蘭も知っている。
「まあ、とりあえず、説得しようよ。ちゃんと伝えないと。」
「そうだね。」
マーシーは、急いでそういうことを言った。確かに事情がある人を相手にするとなれば、なかなか難しい一面がある。彼女たちがやっと前向きになったのに、それをやめろというのは言う側もつらい。
「まあわかったよ。ありがとう。いずれはしなきゃいけないと思っていたから、きみの後押しで助かったよ。」
と、マーシーはため息をついて、
「じゃあ、ありがとうな。」
と、いって電話を切った。蘭は、電話アプリを閉じた。まったく、歴史のはっきりしない日本の時代だなと思ったが、蘭たちもそれで生きていなければいけないのである。蘭が扱う客の中にも、事情をはっきりさせない日本のせいで、心が傷ついて身動きができなくなった女性たちが多くいた。確かに、嫌だという人もいる。でも、ここにいる以上、解決はできず、自分で見切りをつけて、ここで生きていかなければならないということが答えである。勇気を出して、外国人と結婚してしまうなどしてしまう人もいるが、蘭が相手にする人は、そういう強運の持ち主は少ない。だから蘭も、背中に入れてある、龍やクジャクなどを頼りにするつもりで生き抜いてくれというしかないのであった。マーシーも多分そうなんだと思う。そういうひとを扱うときは、蘭のように画像を頼りにするように、ということもできるのならまだ簡単だった。マーシーの場合は、言葉を使うから、より難しくなる。
そのマーシーは、蘭と電話をした後、製鉄所を訪れていた。
製鉄所と言っても、鉄をどうのこうのという場所ではなくなっている。利用登録した利用者が、学校の勉強をしたり、自主的に資格試験の勉強をしたりするところである。中には会社の仕事をやっている人もいる。利用料さえ払ってくれれば、利用する頻度などは特に決められていない。毎日来る人もいれば、月に一度程度の人もいる。大体の人が女性であるが、中には男性の利用者も若干いた。製鉄所の利用者の中には、いつもと違う恰好がしたいということで、着物を着ている人も現れるが、その中に銘仙の着物を着ている人は誰もいなかった。
製鉄所の利用者たちは、大体居室で一人で勉強するものもいれば、食堂で何人かのグループで勉強しているものもいる。
マーシーが、こんにちはと言って、玄関のインターフォンのないドアを開けると、利用者たちの声がしていた。みんな熱心に勉強しているようだ。ここはこのように解くのだ、この答えはこうすればできる、等と教えあっている声がしている。彼らは学校で、こんな問題もできないのか!などと言われて、いじめたり、馬鹿にされたりしている人たちであった。だからこそ、答え方を親切に教えあう事ができるのだ。
彼女たちがやっていることを、マーシーもサークルでしてあげられたらいいのかなと思った。ただ、マーシーはもう一つ気が付いた。利用者たちの声に交じって、水穂さんがせき込んでいるのが聞こえてきたのだ。利用者たちは、数学の問題を教えあっているのに、夢中になっていて、直ぐには四畳半に行くことができないようだ。まあそれはいつものパターンである。マーシーは、急いでお邪魔しますというのも忘れて、四畳半に直行した。中では水穂さんが横向きになって寝ながら、せき込んでいた。マーシーは、水穂さんの口元に、チリ紙をあてがってやった。しばらくせき込んで、水穂さんの口元から赤い液体が漏れ出してきて、畳を汚すことはしないで済んだ。出すものが出せたあと、水穂さんは、申し訳ありませんとだけ言った。
「いいえ、気にしないでください。其れより畳が汚れなくてよかったですね。」
と、マーシーは言った。水穂さんを見ると、銘仙の袷着物を着ている。
「水穂さん、また銘仙の着物ですか。それじゃなくて、別のものを着たらどうですか?どうしても、それを着なければいけない事情でもあるんでしょうかね。」
水穂さんは、申し訳なさそうな顔をしているままだった。
「仕方ないじゃないですか。そうしなければならないんですか。きっと、そういうことは、一般の人にはわからないのではないでしょうか。」
と、水穂さんは、小さい声でそういうのだった。
「わからない、ですか。」
と、マーシーは水穂さんに言った。
「そういうことは、仕方ないじゃなくて、ちゃんと理由を話すべきじゃないかなと思うんですが。」水穂さんの弱弱しい目が宙をういた。
「そんなことしたって、わかる人はいないでしょう。わかろうとする人だっていないですよ。だって、分かる必要なんてないし、関わらないほうが幸せだと息巻く人さえいますから。」
「そうでしょうか?」
と、マーシーは言った。
「でもですよ、水穂さんは知らないでしょうけどね、銘仙はおしゃれ着のひとつになっているんです。リサイクルショップとか、そういうところで、安く手に入っちゃう事もありますが、それ以外に、別の問題もありますよ。そこを学校では教えないから、皆そういう事も知らないで平気でおしゃれ着にしてしまうんだ。水穂さんそれを聞いてどう思いますか。僕たちの立場からしてみたら、そんなことはしたくないと言ってくれますか?」
マーシーは、水穂さんにそういうことを言った。
「僕は。」
水穂さんは、小さい声でいった。
「僕たちが着ているものを着ているせいで、心無い人にばかにされたり、注意をされたりしている人たちが、かわいそうでなりません。」
「そう思うんでしたらね。何か行動を起したらどうですか。ちゃんと、自分が学校とか社会で受けてきた差別とか、辛かったことをちゃんと話すんです。」
マーシーはそういったが、水穂さんの表情は変わらなかった。
「そんなことしても無駄ですよ。どうせ、穢多のほら話程度しか見てくれないでしょ。それをするのであれば、僕が消える方がよほどましです。そういうものですよ。同和問題っていうのは。幾ら、やめてくれといったって、穢多のくせにほざくなって言われたら、何も言えないですもの。」
そういう水穂さんに、マーシーはどうしてそういうひどいことを平気で言う人たちと戦おうとしないのか、と言いたかったが、水穂さんの弱った体では、そういう事もできないと思った。
「それでは、水穂さんは、このまま放置しておくしかないとお思いですか?」
マーシーがそういうと、水穂さんは、やつれた顔で目をつぶったまま、頷いた。
「そういうもんですかね、、、。水穂さんは、時代が変わったのを、遠くから眺めているしかないと、それしかないということでしょうか?」
マーシーは、改めてそう聞いてみる。
水穂さんから答えはでなかった。もう薬が回って、眠ってしまったのだ。
「そうですか。当事者は、そうするしかできませんよね。ごめんなさい、水穂さん。」
と、マーシーは静かに言って、水穂さんにかけ布団をかけてあげた。
「そうなると、彼女を説得しなければなりませんよね。」
大きなため息をつくが、そうするしか答えはないということをマーシーは思った。
そして、その数日後。マーシーのもとに、問題のある女生徒が、銘仙の着物を着てやってきた。確かにかわいい着物だ。赤に近いピンク色に、黄色で大胆な花を入れた、変わった柄の着物だが、ほかの着物にはない、銘仙ならではのかわいらしさがある。そこに若い人が惹かれてしまうのだろう。
「あのね、その、着物の事なんだけど。」
マーシーはピアノの前に座った女性にそう声をかけた。
「これが、銘仙であることは知っているね。大正から昭和の初めまでに大流行したが、実は元々は大変貧しい人が着ていた着物だし、そのせいで部屋着程度しかみなされていないんだ。まだまだ、そういうことを言うお年よりも多くいる。そういわれて、君も、良い気持ちはしないだろ。だから、銘仙の着物というものは、公の場で着ないようにしようね。」
「そうですか、、、。」
と女性は、一寸がっかりした様子でいった。
「そうですかじゃなくて、そういうことなんだよ。それは日本のしきたりだから、仕方ないことでもある。こういうことだけではなく、嫌だけど、仕方ないと思われることは、いっぱいあるんだから、これも一つの例だとおもって、納得していこうね。」
マーシーは、傷ついたことのある女性にそういった。こればかりは、女性が、自分で納得してもらわないといけないのだ。幾らいやだとか、可愛いからとか、言い訳しても、歴史というものはそうなってているのだから、変えられないのである。
「大丈夫だよ。きっときみに似合う、着物が見つかるよ。」
と、マーシーは優しく彼女にいった。
「それでは、レッスン始めようか。」
彼女の前に、ソナチネアルバムが置かれた。彼女は、掲示されたクレメンティのソナチネを演奏し始めた。
レッスンが終わると同時に、マーシーのスマートフォンがなった。
「もしもし。」
と、マーシーが電話をとると、相手は蘭だった。
「レッスンはうまくいっている?説得できたかい?」
蘭は、心配そうに言った。
「ああ、本人の意思に任せなければいけないから、難しいことだけど、でも伝えていることはこれで伝えているよ。」
マーシーは、いかにも明るく返したが、でも、その裏ではかなり悩んでいるのがわかった。其れでも蘭は、
「まあ、彼女たちが、ここで生きていかれるように頑張ろうな。」
とだけ電話口でいった。
それでも 増田朋美 @masubuchi4996
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