春が来た日 3

 夜は営業するということで、邪魔にならないようにおいとまする。手作りだったという桜餅をお土産に貰い、店を出た。

 車で送ると言われたけれど、それは断る。お腹も膨れたことだし、歩いてカロリーを消費しておきたい。

 それなら駅までは送ると言われて、了承した。

 土地勘もないし、スマホの地図アプリを立ち上げてもいいけれど、案内してくれるのならば、それに越したことはない。なによりも、春日夫妻に「ちゃんと駅まで行けたか心配だから、連れていってもらえ」と言われてしまった。

 はたして自分はそんなに頼りなくみえるだろうかと、すこしばかりへこんだ。子ども扱いされている気がしてならない。たしかにあのメンバーでは一番年下だ。紺野は二十八歳で、飯島も同じだという。


 飯島といえば、はじめの印象どおり、軽薄そうにあれこれ話しかけてきたけれど、あれはどうも「噂の大食漢に対する興味」といったふうだった。

 あの店で、自分はいったいどういう存在だったのだろう。

 悪い意味ではなく、おもしろがられている気がした。

(そういえば、紺野さんと最初に会ったときも、驚かれた、ような……?)

 はっきり口に出したわけではないけれど、男子と変わらない量を食べるわりに、そこまで太っているわけではない、みたいな目つきをされた気がする。

 まあ、これは美月自身の偏見かもしれない。大学時代、初めてできた彼氏に驚かれ、笑って許容してくれたと思っていたら、自身の友達を相手に笑い話にしているのを聞いてしまったことがあるから。


 なんか、すげー喰うの。俺より喰ってるかも。

 えー、見えねえ。脱いだらどうよ。

 いやべつに。むしろ筋肉質? 陸上部だったって。

 部活やめて、同じだけ喰ってたら、将来デブるやつじゃん。

 それはヤだなあ。


 言っていることは正論で、美月自身も気をつけていることではあった。けれど、あけすけな言葉を笑って流せるほど、まだ大人ではなかったのだ。いまならば、適当に流すことだってきっとできるのだろうが、二十歳の小娘は青臭く、潔癖すぎたと振り返る。

 高校時代はベリーショートの髪、胸はないしで、見た目はほぼ男子だった。部活仲間は男女の垣根もなく仲がよかったし、部活内で色恋らしきものは存在しなかったものだから、初めての彼氏に少々浮かれていたのだ。思い返すと恥ずかしい。


 駅に向かうにつれて、すれちがう人も増えてくる。休日ということもあってか、いかにも「お出かけです」といった雰囲気の可愛い女子の姿も多くなってきた。

 春らしい装いの足もとは高いヒール。軽々と歩いていく姿は華やかだ。

 己はといえば、歩くたびにひらひら揺れるチュールスカートは周囲に引けを取らないと思う。だが、新色のスニーカーを履いている時点でお察しだ。完全に負けている。

(でも、この色可愛いんだもんなあ。軽いし、履きやすいし)

 負け惜しみのように独りごちる。

 昔のイヤなことを思い出して重くなった足を無理やり上げて、前へ向かって進む。そういえば、異性と隣合って歩くなんて、ずいぶん久しぶりだと気づいたとき、紺野が声をかけてきた。

「今日はありがとな」

「御礼を言うのはこっちですよ。お金も受け取ってもらえなかったし……」

「試食って言ったろ」

「いや、あれは『試食』って単語でくくっていいレベルじゃないですって」

 思った以上に本格的で、普通にランチを食べさせてもらった。一品一品の質が高く、単品でも楽しめるものだった。当たり前だけど、社員食堂で食べていた料理とは段違いで、じつはちょっとだけ紺野が遠くなった気がしてしまった。料理上手なお兄さんだったひとが、プロの料理人であることを痛感してしまったかんじ。

 外に出るため普段着に戻っているが、店内で見た調理服姿も堂に入っていて、住む世界の違いも感じる。一般人の勝手な悲哀だ。

「ほんと、ありがとうございました。めちゃくちゃ美味しかったです。今度は普通にお客さんとして行きますね」

「連絡くれたら、サービスするから」

「それは嬉しいけど、あんまり特別扱いはよくないのでは?」

 首を傾げると、紺野は少し考えこんだようすを見せる。真面目だなーなんて思っていると、なにやらかしこまった顔になり、口を開いた。

「次はさ、どっか別の店に食べに行かないか」

「紺野さんの店じゃないところ、ですか?」

「そう。和食でも中華でもフレンチでもイタリアンでも、なんでもいいよ。食べたいもんで」

 ニコリと笑うけれど、なんだか強張っている気がする。

 やっぱり自分が働いている店に知り合いが来ると、緊張するとか恥ずかしいとか、あるんだろうか。バイト先に友達や家族が来ると、途端に恥ずかしくなったので気持ちはわからなくもないけれど、プロの料理人がいまさらそれを気にするとも思えない。

 となると、いろいろとからかわれるのがイヤとか?

 もしくはジャンルにかぎらず、料理を食べて勉強したいという理由。なかには、男では入りづらい店もあるだろうし、ひとりでは躊躇する店もあったりするだろう。

「それは、つまり、敵情視察的な?」

 おそるおそる問いかけると、紺野は言葉に詰まった。

「……デートに誘ったつもりなんだけど、遠回しに迷惑って言ってたりする?」

「え、や、あ」

 耳に届いた声に、瞬間的に脳が爆発を起こす。考えないようにしていた――、あるいは無意識に、本能的に避けていた話題に理解が追いつかず、うまく言葉を返せない。

「えと、あの、その」

(どうしよう。泣きそう)

 それはきっと困る。紺野さんが困ってしまう。今だってきっと困っているはずだ。

 だけど、どうにもできなくて、ぎゅっと目をつぶって顔を伏せる。

 身のうちで心臓が暴れまわり、苦手な短距離を無理して駆け抜けたような心地だ。息がうまく吸えない。

 縮こまる美月の頭上で、紺野が息を吐く音が聞こえた。

 引かれた? 呆れられた?

 さっきまでとは違う涙がせりあがる。指先が冷えて、血の巡りが悪くなる。身体が震えて、歯の根が合わない。今度こそ、本当に泣くかもしれない。

 固まる美月の頭に、ポンと紺野の手が置かれた。男性の指がくしゃりと髪を掻く感触が伝わってきて、ドギマギする。

 怒ってはいないのだろうか。それとも、子ども扱いされているとか?

「顔あげろよ」

「……怒ってますか?」

「なんで怒るんだよ」

「私、ひどくないですか?」

「ひどいと思うなら、こっち見ろよ」

 おっしゃるとおりです。

 小人さんは、いつだって正しい。

 見上げてみると、予想外に満面の笑みを浮かべた紺野と出合い、目を見張る。

 言葉を失くした美月の腕を取り、紺野は歩き出す。駅近くにあるちいさな広場へ向かうと、設置してあるベンチに腰かけた。背もたれのない木製のベンチは、昼間の陽光を受けてほのかに温かいけれど、そろそろ寒さが忍び寄ってくる頃合いだ。

 隣――触れ合うほどの距離に紺野が座っていて、そこから熱が伝わってくる。緊張に身を固めていると、のんびりと声があがった。

「で、なに食べに行く?」

「それもう決定事項なんですか?」

 おかしいな。さっきまでは、もうちょっと、こう、違う話題のはずだったのでは?

 だって、ほら、ねえ? 私ってば顔もろくに見ずに俯いて、それでいてなにを言うでもなく黙ってたわけですし、怒ったり呆れたり嫌になったりするものではないのだろうか。

 焦る美月に、紺野は笑う。

「怒る必要ないだろ」

「紺野さん、天使」

「なんで俺が天使なんだ。天使は美月のほう」

「は!?」

 紺野の言葉に、美月の顔が瞬時に赤く染まる。そのさまを見て、紺野はさらに笑みを深めた。

「顔見ればわかるよ。あんな可愛い顔見せられて、怒るわけないだろ」

 なんだろう。これが褒め殺しってやつか。

 はくはくと言葉にならずに口を動かす美月に、紺野は続けた。

「改めて言うけど、俺は美月のことが好きだ。じゃなきゃ、連絡先訊いたり手紙入れたり、わざわざ時間調整して食堂に残って、来るの待ってたりしない」

「……うん」

自惚うぬぼれるけど、そっちも俺のこと嫌ってはいないって思ってるし、今日こうして会って確信もした」

「……わかりやすいですか、私」

「半分以上、俺の希望的観測だけど」

「いえ、間違ってない、です」

 ぼそりと呟くと、膝に置いていた手を取られた。分厚い手のひらに包まれて、緊張していいはずなのに、伝わるぬくもりにだんだんと心が落ち着いてくる。

「紺野さんって、指長いですね」

「そうか?」

「料理人って、指切ったりしないんですか?」

「昔はあったかな。でも、今は注意してるよ。食材を扱う以上、手に怪我したら厨房には立てないから」

「ああ、そうですよねえ」

「あのさ」

「はい」

「好きだ」

 力強い言葉は胸を打ち、その瞬間、強張ったように震えた大きな手から彼の緊張も伝わって、美月の頬がゆるんだ。

 うん。ドキドキしているのは私だけじゃない。

 そのことが、嬉しかった。


「私も、紺野さんのこと、好きです」

「――ありがと」

「そこで御礼言うの、ヘンですよ」

 美月が笑うと、紺野もまた照れたように笑った。

 掻き捨てとばかりに、美月は今日思っていたことを告げておく。

「今日の紺野さん、すごくカッコよかったです。実際に作ってるとこ初めて見ましたけど、いままでで一番ドキドキしました」

「……それ、ずるいだろ」

 紺野の顔が赤くなったことに、美月の気分はあがった。形勢逆転。自分ばっかり照れているのは、それこそ「ずるい」と思う。

 すこしは優位に立てたかなと思う美月に、距離を縮めた紺野が囁く。


 そっちこそ、今日の服、めちゃくちゃ可愛い。正直、店に戻るの嫌になる。このまま、二人きりになりたい。


 耳朶を打った言葉と吐息に、美月の頬が染まる。

 間近にある紺野がニヤリと笑い、またも、してやられた気分になったとき、頬の熱になにかが触れる。柔らかなその正体を察した数秒後、同じものを今度は唇で受け止めて、美月は急勾配の坂道に挑むランナーの心臓と化した。


 そよぐ風が足もとを抜けて、スカートの裾を揺らしていく。

 ついさっきまで、肌寒いと感じていたそれは、紺野瑞貴のおかげで瞬く間に変化する。

 季節は巡り、美月の傍にも春の訪れ。

 今年最初に感じた春は、桜餅の味だった。






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