春が来た日 2
店内に入ってすぐの場所は、ちょっとした待合スペースで、椅子が三脚ほど置いてある。左側は、男たちが消えていった厨房。店内との境になっているカウンターの端にレジがあり、支払い場所になっているようだ。従業員の数も少ないことだし、常にひとの目が届く場所にしているのだろう。
正面奥には小上がりの部屋がふたつ。今は
柱と柱のあいだを格子や植え込みで仕切り、テーブル席が並ぶ。右側の壁には大きめの窓があり、庭が見えた。壁に沿うように、ぐるりとカウンターが席が並んでいる。庭を眺めながら食べる席であり、あそこなら「おひとり様」も気軽に楽しめそうだと感じた。
「ゆっくりするなら奥なんだけど、靴を脱がないといけないから、テーブル席のほうがいいよね」
雪恵が美月の姿を見て、そう呟く。
今日は膝丈のチュールスカートだ。たしかに、椅子のほうがありがたい。
(うーん、そこまで考えてなかったなあ……)
自分の姿を見下ろして、そう思う。
ピンクベージュのスカートに、オフホワイトのカットソー。その上に、若草色のニットカーディガンを羽織っている。
ちょっと春っぽくなったし、なんて理由をつけてみたけれど、本当のところはそれだけではない
紺野とは会社の食堂で、はたまたお手紙で、さらにはスマホのメッセージでと多岐に渡ってやり取りをしているけれど、社外で会うのは初めてなのだ。量産型の事務服を脱した姿をさらすにあたり、どうしたものかとじつはすごく頭を悩ませた。
気合を入れすぎると、なに浮かれてんの? ってかんじだし、かといって通勤着と大差ない恰好もどうかと思う。大飯喰らいなのはとっくにバレていて、目的だって「お食事」という
なんというか、そう、デート的なものではないのだ。
――そう。そうなのだよ美月くん。
胸のうちで、自分に告げる。
結局は、厨房に近いテーブル席を選んだ。四人掛けのテーブルで、斜め前の席に雪恵も腰かけて、話をする。
やはり今は感染対策をきちんと取らないといけなくて、優良店にはその旨を記したポスターが配布されるそうだ。入口に貼ってあるやつが、それらしい。アルコール消毒液の設置に加え、お客さんが座る前にも机や椅子の消毒と、作業が増えているとか。
「それでもうちは、収容人数が少ないからねえ。ファミレスみたいなとこは、もっと厳しいんじゃないかなあ」
「なんか大変なんですね……」
「馴染みのお客さんに支えられて、なんとかやってるところ。それに、美月ちゃんのとこも含めて、社員食堂サービスもあるしね」
「あれはすごく助かってますよ。うちの会社では評判いいです」
専用Webサイトには、協賛店の名前が載るようになった。絶対宣伝になるし、食べに行ってみようって思うひとがいると思うと、紺野相手に豪語したせいだろうか。喜ばしいかぎりである。
店のメニューも見せてもらった。懐石料理っぽいものもあるけれど、居酒屋メニューで見かけるものもあり、ラインナップを見ていると面白い。レディースセットにお子様ランチといったものまであり、家族でも来られるお店といった雰囲気だ。
店の名前は、苗字から取られているらしい。「
そういうの、素敵だなあと美月は思う。
「紺野くんから、なにか聞いてる?」
「お店のことですか? 以前の店でお世話になっていた兄弟子に誘ってもらった、みたいなことは教えてもらいました」
「そうなの。あいつはもっとこぢんまりした店のほうが向いてるって言って、うちの人が誘ったの」
「なんか、いいですね。そういうの」
「ねー。男同士、ちょっと妬けるよねえ」
そこからは、夫婦の馴れ初め話。雪恵の実家は食品の卸業者で、哲史は買い付けにやってきたお客さんだったという。
すごい、社長令嬢だよ。
ちいさい会社よーなんて笑っているけど、家が会社経営だなんて、しがない勤め人としては図がない。紺野は紺野で、料理人一族だというし、どうしよう、周囲がハイスペックすぎると、美月は内心ひやひやした。店の掃除をしている飯島に至っては、容姿がとても整っている。話をすればチャラいけど、女子ウケはしそうだ。まあ、美月の好みではないのだけれど。
軽薄そうなひとは苦手だ。真面目なほうが絶対いい。そう、例えば――
ちらりと厨房へ視線をやると、哲史に見守られながら、紺野が調理をしている姿がある。食材を扱うにあたり、しっかりとマスクをつけているせいではっきりとは聞こえないけれど、ときどき確認するように問いかけ、二言三言なにかを返され手元に戻る姿は真剣だ。
(そういえば、紺野さんが実際に料理してるとこ、初めて見るかもしれない)
社員食堂の小人さんは、決してひとに姿を見せない。顧客に気づかれず、そっと配膳する存在だったので、包丁を握る姿はお初である。
テレビや雑誌で見たことのある調理服は、いかにも「和食の料理人」といった装い。いつも見ている簡易的な白衣とは、なんというか、空気が違う。趣があるといってもいい。いや、艶っぽい、かな?
なんだかんだ、それっぽい言葉を当てはめてみるけれど、つまるところようするに、
「ああいう恰好してると、割増でカッコよく見えるのよねえ。ずるいなあ」
雪恵がしんみりと呟く。
ちらりと視線を向けると、彼女の瞳はまっすぐに自身の夫に向かっていた。
さっきまで見せていた穏やかな笑みはなりをひそめ、今は鋭い目つきで紺野の手元を見つめている。離れたところから見ていても、ピリリっとした空気が伝播してきて、こちらも背筋が伸びる心地だ。
職人さんの仕事は、仕事に向かう姿勢だけではなく、その心根も素敵である。
うん、カッコいいな、紺野さん。
はっきりくちに出す度胸はまだなくて、同意するように頷いた美月を見て、雪恵はゆるやかに微笑んだ。
たぶん、見透かされているだろうけれど、からかったりしない優しさに甘えて、「はるひ」の甘味メニューについて花を咲かせることにした。
◇
料理を運んできたのは、紺野自身だった。小判帽を脱いだ顔は、ここ数ヶ月で見慣れてきた紺野瑞貴そのままだけど、着衣のせいでやっぱり知らないひとのようにも感じてしまう。
入れ替わるように雪恵が席を立った。手を振る彼女に会釈して、紺野に視線を戻す。テーブルの上に置かれたお盆には、汁椀と飯茶碗。大きな角皿にはワンプレートランチよろしく、数種類の料理が少量ずつ小分けされており、どれも美味しそうだ。
「普通の懐石なら、先付けから始まって順番に出していくんだけど、いまはそうもいかなくてさ」
「さっき雪恵さんにも聞きました。ゆっくりお喋りしながらーってわけにはいかないから、一度に出す形式にしてるって」
一品ずつの提供だと、どうしても時間をかけての食事となる。勿論、本来はそういうものなのだが、「食事中は会話を控えて、食べていないときはマスクをしよう」というご時世。致し方ないところだろう。
けれど、それはそれで悪くないと美月は思う。
少しずつ出される料理を、まどろっこしく感じるタイプもいる。また、定食のように一気に出してもらうほうが、いろんなものを崩しながら食べられていいな、とも思える。お行儀はよくないのかもしれないけれど。
「ご飯はおにぎりにしようかって話もあるけど、今日はとりあえずお椀に盛ってる」
「女性や子ども向けなら、小さいおにぎりはいいかもですね。見た目も可愛いし」
「印象はともかくとして、問題は味だろ。ほれ、食べた食べた」
「……なんか、ひとりで食べるのも申し訳ないような気がしますけど」
「美月さんは、モニターだし。お客さん第一号として、気にせずどうぞ」
尻込みしていても仕方がないし、なによりも美味しそうだから食べたい気持ちが勝る。美味しい料理の前で、羞恥心など役に立たない。手を合わせて頭を下げると、まずは飯ものだ。
小振りの茶碗に盛られているのが、しらすと高菜の香りご飯。湯気とともに、しらすの香りがぷんと立つ。くちに入れるとわずかに塩気が広がり、高菜の歯ざわりも楽しい。炊き立ての柔らかい白米と相性抜群だ。好き。
「あったかいご飯なら、こうしてお茶碗から食べたいですね。少し冷えたなら、おにぎりでもいいけど。一口大のボール状とか?」
「一口サイズってのは扱いが難しいんだ。そのまま頬張って、喉に詰まったとか言われても困るし」
「あー、なるほど」
揚げ足取りのようなことを言うひとは、いるかもしれない。対策は必要だ。まったく世知辛い。
言いながら、紺野が次の料理を勧め、美月は小鉢に箸をつける。
鶏ささみと玉ねぎの酢の物、梅肉添え。ほぐしたささみに絡む薄くスライスした玉ねぎは、酢の物にするとさらにさっぱりと食べられる。春メニューということで添えられている梅肉は、甘みが強め。梅干しの酸っぱさが苦手な美月としては、これぐらいがちょうどいい。
「酸っぱいの好きじゃないだろ。だから、ちょっと甘めにしてる。もうちょっと暑くなると、酢が強めでもいいんだけど」
「……苦手なの、バレてました?」
「辛みが強いのも駄目だよな。じいさんの麻婆豆腐は、日本人向けに辛みが少なかったし」
「おっしゃるとおりでございます……」
さすが小人さん。魔法のように、すべてを把握している。
思わず頭を下げると、小さく笑う声が耳に届く。
目線を上げると、こちらを見つめる視線とかち合った。居たたまれなくて、また顔を伏せる。
ついさっき、雪恵に内心を見透かされたときはなんとも思わなかったけれど、彼が相手だと妙に恥ずかしい。これは男女の差なのだろうか。
冷めるぞと促され姿勢を正し、皿の料理に箸をつけていく。
揚げ物は、木の芽と
つぎに塩。柚子の風味が鼻に抜ける。筍の甘みと塩が絶妙のバランスで、美月はこちらに軍配をあげた。たぶん、この柚子塩が美味しい。
徐々に気温も上がってくるから刺身はやめて、切り身の魚を焼いている。冬場なら煮付けるけれど、これからの季節は全体的にさっぱりした味付けのものになっていくらしい。
温かいものも一品あった。海老しんじょのお吸い物。これがすこし変わっていて、咀嚼しているとザクリとした感触がある。
「なんですか、これ」
「天かす」
「ああ、なるほど」
「揚げたものを吸い物に入れても、あんまり意味ないだろ。だから中に混ぜてみた」
「へえ。食感が楽しくていいですね」
説明されながら食べると、なお美味しい。
はじめの緊張はどこへやら、いつのまにかしっかり堪能し、皿は空になった。そのタイミングで雪恵が近づいてきて、小皿を置く。桜餅だ。
「デザート、どうぞー」
「いいんですか?」
「みんなで食べるから、遠慮なくどうぞ。はい、紺野くんも」
「ありがとうございます」
「お茶、淹れ直してくるね」
美月らが座ったテーブルの周囲に椅子を置き、全員が集まった。視線が集中するなか、美月はあらためて頭を下げる。
哲史からは料理について訊ねられ、いくつか所感を述べるが、あくまでも好みの範疇だ。グルメ舌でもなんでもない、ただの一般人に多くを求められても困ってしまう。恐縮する美月に、和の料理人は笑った。
「意見をどう反映するのか、決めるのはこっちだから、気にしなくていいよ。逆に後押しにもなるかもしれないし」
「そう言っていただけると、気が楽になります」
「梅肉はやっぱり甘めのほうが好きかー、とかね」
「ただの好みですよ?」
「うん、わかってる。瑞貴が言ったとおりだったなーって思っただけ」
「哲さん!」
哲史の弁に、紺野が声をあげた。たしかに味の好みは把握されているように思うけれど、もしかして、わざわざそれに合わせてくれたのだろうか。意見が食い違っていたのに。
それはちょっと、嬉しい、かもしれないけれど、上司に逆らっていいものなのだろうか。
料理人の先輩で、店の味を決めるであろう相手で、一番偉い人物。雇い主だ。すごい相手では?
美月の心配をよそに、紺野は憮然とした顔つきだ。そんな部下に対して、哲史が笑顔で返しているところをみると、関係性が悪くなったようには感じられない。
ならば、親しい者同士、冗談の範疇なのだろうと結論づけ、美月はほうじ茶をすすった。
はー、桜餅も美味しい。
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