第2話 ゲームの世界に迷いこみました。

ふわりと良い香りが鼻孔を擽り夢から現実にゆっくりと引き寄せられる。

甘い花や香水のような香り。

お香のような香りといった表現の方が正しいかもしれない。

何度かの微睡みの中でふとその香りの出どころが気になって意識がしっかりと現実に留められた。

彼女の部屋にそんな良い香りのするものは置いていない。

少し高尚なものともとれるその香りを今まで自室で嗅いだことがないと眉をひそめ、まだ重たい目蓋を押し上げる。

そして開かれた彼女の目に飛び込んできたのは彼女が予想すらしていないものだった。

「ここ……どこ……?」

彼女は今まで見たことのないほど美しく広い一室で目を覚ました。

まだぼんやりとしている思考を必死で巡らせるが全く答えが出てこない。

今の今まで自室でゲームをしていたはずなのにちょっと眠って目を覚ましたら突然全く別の場所にいるなんてこと現実的にあるんだろうか。

彼女は何か手がかりになりそうなものを探そうと辺りを見回す。

なにか誘拐事件などに巻き込まれたとも考えたがその考えはすぐにかき消された。

僅かに開かれた襖の奥に見えたのは悠然と空を泳ぐ龍や花が咲き誇る木の下で手からぷかぷかと水を浮かび上がらせている男性の姿だった。

ここは自分のいた現代日本ではない!と彼女は驚いた顔を隠すことなくその光景をただみつめていた。

周りをゆっくりと見回せば、綺麗な襖や屏風みたいなものや香炉や茶器などどこか昔の日本的な物も多くあるがワイングラスや本、紙やペンなど西洋っぽいところもあるのでどうやらここは和洋折衷な世界観らしい。

とりあえず今いるこの世界も突然置かれたこの現状もファンタジーだということは彼女にもよくわかった。

次はどうにかして今の状況とこれからの道筋を把握したいとどこか冷静に正常に動いている思考を巡らせている時、部屋の外から女性の声がした。

「ミツカ姫、もう起きていらっしゃいますか?」

その声を聞いたとき、わからないことが増えた。

まず、もう起床してるか尋ねられたのは理解したがその前のミツカヒメとは何?ということ。

彼女はどこで区切るのかもわからず首を傾げた。

そしてもう一つはすらりとした振る舞いで部屋に入ってきたこの女性は誰?ということだ。

女性の着ている服は西洋風のメイド服だ。

メイド喫茶などでよく見る短い丈のスカートではなく映画などでたまに目にする西洋の昔のメイドさんの服という感じに見える。

白いブラウスと踵くらいまでの長い丈のスカートの上には白く少しフリルのついているけれど実用性がしっかりとしているエプロンをつけている。

名前はわからないがこの女性はメイドさんなのだろう。と彼女は思った。

「姫様?御加減いかがですか?少しぼんやりとされていますが……」

雨戸を開けて太陽の光と外の空気を部屋に入れながら心配そうにメイド服の女性が彼女に尋ねる。

心配そうな顔に慌てて大丈夫だと答えると女性は安堵した表情でまた仕事に戻る。

姫様……ということはミツカヒメはミツカ姫ということか!と納得した。

けれどミツカって誰だ?とやはり首をひねる。

ミツカ……どこかで聞いたことがある気がするが自分の名前はミツカではない。

自分の名前は……と当たり前みたいに、息をするみたいに思い浮かべようとした名前は深い霧の奥に掻き消されていくようだった。

名前が思い出せない。

生まれてからおそらく一番多く口にしたり書いたりをしたはずなのにぽかんとそれが頭に出てこない。

それだけではない。

自身がどこの誰でどうやって過ごしていたかさえも全く出てこないことに気づいた。


ここに来たことは覚えている。

来る前何していたか出てこない。

日本で暮らしていたことは覚えている。

日本のどこかは出てこない。

言葉や字は覚えている。

どこで誰に習ったのか出てこない。

乙女ゲームのことを含め好きだったことや物はほとんど全部覚えている。

自分を取り巻いていた環境や人間関係はほとんど全部出てこない。

どうでもいい記憶が残っておそらく必要としている記憶がすっかり彼方に飛んでいってしまって微塵もない。

今まで変に冷静だった脳が俄に慌てだしたとき先ほどの女性が彼女に向かってにこりと微笑みながら声をかける。

「来月にはワンド学園の入学式ですから楽しみですね、姫様」

女性の発言を聞いてはじめてこの世界がどこかはっきりと理解した。

ワンド学園……この名前は覚えている。

つい先ほどやっとの思いで完全クリアを果たした乙女ゲーム『愛に惑う魔道者』の舞台である。

つまりここはゲームの世界だ!!

ゲームの世界に迷い込んでいる!!

彼女がはっきりと理解した現実が本来現実的にはありえないもの。

信じられない現状がわかっても根本的な問題解決には至らずさらに解決策など一切思い浮かぶ気配すらなく頭を悩ませたことは言うまでもない。

とりあえず彼女は自身をミツカと名乗ることにした。


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