第6話 想いの果てに

「良い天気だなぁ……」

焼きたてのパンが広げる、香ばしい麦とバターの匂い。嬉しさのあまり、白いしっぽをパタパタと上下させながら、ガラスの猫ーー△は、ひとりポツンと呟いた。


主人である◯ーーまだ幼さの残る少年が旅立ってから、一週間が経とうとしている。自分も、一緒についていくことはできた。△がうるさくせがまずとも、◯は快く同行を許しただろう。

けれどもそれをせず、家に残ることを選んだのは、ボクの気まぐれだった。


昔のように、何処かへ飛び出したい衝動も、人目を避けたい気持ちもない。

ただ、今日から明日へ流れていく青空の雲を、ぼんやりと眺めながら生きている。それができる。それぐらい、ボクの今の主人は、居心地の良いひとだ。


「こんにちは」

「コンニチハ。この頃、よくこの辺りで会うね」

はるか頭上から舞い降りてきた声に、さして驚くこともなく△は応じる。間もなく。ばさっ……ばさりと力強い羽根の音と共に、一人の女性が降り立ってきた。

「はい。担当地区が広がって、端にも行っていますよ」

以前、◯に運命の手紙を届けにやってきた配達員・*は、今日も大きく膨らんだ肩掛け鞄を下げていた。忙しそうだ。


「……ツラくない?」

「……少しだけ。けれど、不思議ですね。それ以上に、あの人にーーあなたの主人にもう一度会いたくて、この仕事を続けようと決めたんです」

「キミの主人は?」

△の言葉の続きーー*の主人の気質について尋ねられたと分かると、*は少し困ったように眉を下げた。

「そうですね。

……でも、私は奴隷ではありませんから。全部に従わなくてもいいんです」


ボクの隣にやさしく腰かけた*は、ふぅっと息を吐いた。

「何をしたくて、何処へ行くのかーー自分の意思で選んで、決めてもいいんです」

「……そっか。ボク、キミのこと好きだなぁ」

「え?」

「にんげんのことミンナは好きになれないけれど、キミみたいに真っ直ぐで素敵なひとのこと、ボクは好きだよ」

ありがとう、と口元にえくぼを作って。*はいっとう美しく笑った。


そうして、“そうだ。お届けものです”……と大事なことを思い出したようで、*は大きな鞄の中を手探りで探していた。

「《親愛なるワタシの友達ーー牛乳とパンが大好きだった、青雲の瞳の子へ》ーーきっと、あなたのことだと思って」

△に手渡されたのは、一通の手紙だった。くるりと巻かれた紙の中に、ぷつぷつと黒い点と線が続いている。


「!そうか……そうか」

青い光を讃える瞳が、紙面の文字を追いかけて走る。間違いなく、かつて△を守ってくれた老人からの贈り物だった。見たことのない筆跡の中に染み込んだ、あたたかな熱。あのときは冷たかった、牛乳とパンについての話。確かな愛と、今なお△のことを心配してくれている老人の存在に、懐かしさが込み上げてくる。


よかった、よかったと、△はまじないのように何度も繰り返し呟いた。



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