第3話 一枚のクローバー

幸せ、という言葉が、世の中のあちこちに隠れている。


日の光を浴びて煌々と根を伸ばし、時の巡りの中でどこまでも繋がっていくもの。或いは、人目に触れない、自分ひとりの椅子に座って、今日という日を静かに織っていくもの。その有り様・営みは、様々あるだろう。


だからこそ、“見つけなければならない”。例え一瞬の、今だけのことだとしても――自分にとって、何が“幸せ”なのかを――。


「……私が、好きでやっていることだ。おまえは何も気に病むことはない」

口癖のようにそう言うのは、とある館の主人。その側に仕える黒い青年は、「はい」と主人の膝元に頭を預けると、心地よさそうに目を伏せた。


固く大きな主人の手が、青年の黒髪をさらさらと撫でる。最初はぎこちなかった手つきも、すっかり慣れたもの。青年が満足して頭を起こすまで、主人はゆっくりと時を待つ。


「……クロバ様」

遠慮がちに青年が顔を上げれば、主人の手がすっと頬に伸びてきた。


「どうした。痛むのか」

「いいえ」

低く、熱を秘めた声。木々が風に揺れ、葉が静かに擦れあって。その隙間から、光がこぼれているかのようだ。そんな主人が眩しくて、あまりにも美しくて、青年は小さく答える。


「内に秘めるのは良い。もうすでに、おまえの望みは叶い始めているだろうから」

主人――クロバは、つつくのが上手かった。相手の言わんとすること、本当は吐き出してしまいたいこと。分かっているけれど、目をそらしていること。それを言葉巧みに、けれどもたっぷりと時間をかけて。扉が開くまで、決して急かさない。


指先から、伝わってくる。不器用な愛、遠慮がちで――けれども激しい欲求、崩れていく音。

「……名前を、呼んでください」

「ミトー。甘え下手め」


主人と青年は、どちらからでもなくお互いの欠陥を塞ぎ、埋め合っていた。今目の前にあることが事実であり、現実。それを疑うこともなく受け入れてきたし、仕事においても淡々と、必要なことだけを客に提示してきた。


「これを。“過去の私”に」

今日も今日とて、固く封をした思いを解き放とうと、館に客がやってくる。客から預かるのは、言葉の詰まった手紙。その言葉を、夢を辿って相手に渡す――それが、青年と主人の仕事。いわゆる、「虫の知らせ」を届ける仕事だった。


時の波に浮かぶことなく、言えずに沈んでいった言葉――それを救って、吉兆として、警告として伝える。


「知らなかった幸せ、知らなかった不幸。気付いた幸せ、気付いた不幸。形なんて決まっちゃいない。あんたは、どれを取る?」

主人は、事の結末に興味などない。それぞれの人生だ。ただその何処かで、誰かと出会うだけ。


「俺は、人の形をしてるけど、“人”じゃない。ガラスになったって、おかしくないですから」

自分の体の一部がガラスになり始めたとき、青年は恐ろしく冷静だった。


「……もう、おまえには“葉”を授けてしまった。私の力では救えない」

「構いません。もう、沢山もらいすぎているくらいですから」

主人の言葉に、青年は明るく返した。

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