第2話 配りの*
「名前のないひとからの、手紙です」
私から手紙を受け取るなり、不思議そうにそれを裏返す相手。ーー手紙に書かれた名前から察するに、その人物の名前は◯というらしい。
この世界において、“名前”は必需品であり、道具でもある。そうして、一番よく使うのに、誰にも“消せない”決まりだ。
「名前のない手紙なんて、初めて見るぞ……?とんでもなく怪しい。読まない方がいいぞ。少年」
少年、と呼ばれた男の子、◯の隣。長身細腕の男が、少年の手中にある手紙と、私の顔とを交互に見ながら早口で言った。
その姿は、さながら畑を守るカカシ――風に揺れて、ひとり愉快に踊っている――に似ていた。
「おーい、少年……?」
「――手紙をもらうのなんて、初めてだ。ふふ、ふふ」
一方、男の助言、というよりも焦りを気にも止めず、◯の手は、先ほどから何度も手紙を撫でている。
「ありがとう。……あの、お姉さんの名前は?」
手元の手紙に落ちていた◯の目が、ぱっと私に向けられた。蜂蜜色の、甘くて純粋な夢の香りがする目だ。
いつも私が仕事前に見る、早朝の朝焼けを思い出す。時の命の始まりを、そっと温めてくれる色。私が大好きな景色だ。……あぁ、首の赤いマフラーの下で口元が緩む。
「*といいます。今は、北地区で運び屋をしています」
「ありがとう、*!大事に読むね」
そう。つい先日、誕生日プレゼント――確か、茶色いくまのぬいぐるみだった――をもらって目を輝かせていた私の仲間も、こんな風に歯を見せて笑っていた。たった数日前のことなのに、もう何年も、ずっとずっと過去のように感じる。私の記憶は、風のように通り、すり抜けていく。
「まずは食べよう。話はそれからでも遅くない」
約束からだいぶ遅れてやってきて、絨毯に腰を下ろした主賓はのんびりと、目の前のパスタに手を伸ばした。染みもほこりもない、真っ黒なパーティの装い。主賓の側に居る奥さまは、胸元に光る、白磁ガラスのブローチが実によく似合っていらっしゃる。
私はただ唯一、その空間で浮いていた。しかしそれは、体がふわふわと宙に浮いていたわけでもなければ、心が高ぶって浮かれていたわけでもない。どちらも不正解だ。行き場もなく、ざわざわと。一人だけ、違う部屋にいるかのような空気、見えない壁が、さも当然のようにあったように思う。
浮いていたのは、今すぐにでも押し潰されそうな、“私”という存在そのものだ。
私は、運び屋としての才能を評価されているようだ。幸い、地方だけで配達してきたところを、範囲が広がれば、給金も増えるだろう。数日の休みを貰って、故郷のアトリエに出掛けるのも良い。
でもそれも、蓋を開ければ、所詮うわべだけの、無機質で儚いものだった。
『君を正規に雇うことはないな』
『わたし達は、君を、才能にあふれたひとだと思っているんだ』
『他者から見れば違いはわからないだろう?ただ君は、非正規で、働ける時間が限られているだけの話だから』
言葉が、私を埋めていくようだった。見えない黒の中に。自分だけでは決して戻ってこられないような、土の中に。
私の中で、がらがらと何かが崩れ落ちていくよりも前に、言い様のない熱が目尻に溜まっていった。
泣きたい。いっそ本当に泣いてしまって、思いの丈を吐き出して、ぶちまけて、全部全部消えてしまいたい。
ダメだ。ここで泣いたら、本当に、惨めで仕方のないにんげんになってしまう。今日、そして今、私がこの場に来るために力を尽くしてくれているひとに、申し訳ない。
“行かなければ良かった”なんて、言えない。いつもと同じ、いつも通りの私でいなければ。自分はすぐ、顔に出てしまうから。*は、悔しさと行き場のない怒りを半分ずつ抱えながら、何とかその日の仕事を終えた。
仲間のもとへ帰り、後で、やっとのことで吐き出せたのは、“一秒でも早く、あの場から離れたくて仕方なかった”だった。
*は、知りたくなかった。自分には理想がなくて、ただ毎日が平凡で何事もなくて、でも生活のためにお金は欲しいと言う。そんな、空っぽでわがままな自分自身のことを。
にんげんの体は、色んなものを隠している。だからこそ、暴きたくてたまらないのだろう。
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