ガラスの呼吸

なでこ

第1話 さよならの△

透き通っていて、誰の目にも白い残像を残すかれらーーガラスたちは、この世界の半分だった。骨も、心も、持つもの全てが透けて見えてしまうものたちは、にんげんが恋しかった。にんげんだけが、自分たちを特別に思ってくれるから……これは、過去に誰かが吸い、吐き出した、甘い物語のごく一部。


「◯◯、そんなに急いでどこ行くの」

言葉にならない息が、◯のわずかに開いた唇から、心の奥底から切れ切れに出ていた。


◯はガラスに触れない。それが分かったのは、初めて△に挨拶をした日だ。今でもはっきり覚えているし、日記――かつては真っ白なノートだったけど、もうボロボロの灰色に変わってる――にもちゃんと書き残してある。

ぼくは、世界の半分に触れない。太陽や月、深海の魚、誰だって触れないでいるものなら分かるのに。


目に見えて、すぐそこにあって、それでも◯はボタンを押すことを許されない。いつも一人ぼっちで真っ暗な、◯の部屋が一瞬で明るくなるだろう、素敵なボタンを。


はぁ……と、もやもやとした白い煙をどこにでもなく吐き出して、◯は一人ぼっちにうなだれた。その隣で、△は今日も何かを食べている。がりがりがり、ボリ、ボリ。小さいくせに、固くて強暴な前歯が削っていくのは、ネズミの体だ。


尾が割れて、耳が無くなって、どんどんどんどん、小さくなっていく。まるで、お気に入りのキャンディを、噛み砕いて食べるにんげんみたいだ。冷たいローテーブルに突っ伏して、△の食事を隣でじっと見つめる。それが◯の日課だ。


『素晴らしい……何て美しい毛並みなの』

△の前の主人は、富豪のご婦人だった。△の持つ、白百合の花弁のようなすべらかで素直な体に、すっかり虜になって……使用人たちの猛反対を聞きもせず、野良猫だった彼を拾った。


「最悪だよ。……ボクが“パンが食べたい”って言うのに、ガラスの小石を与えるひとだった。そこに愛なんて一欠片もないよ」

とても純粋で、かつ何にも染まっていなかったはずの△は、そうしてひねくれたらしい。そして、彼が年を重ね、老いるはずのない美しさが枯れていく様を目の当たりにしたご婦人は、激怒した。


『あなたが与えるから、このこは変わってしまった』と、いつもこっそり△に売れ残りのパンや牛乳を分けてくれていた、やさしい配達員のおじさんだけが、何日もひどく責められた。


「本当の欲しがりがどちらなのか、よく考えてごらんなさい。このこは、あたたかい食事が食べたいだけだ」

ご婦人が何かを投げつけてくる前に、おじさんはこっそり、裏手から△を逃がした。


「ボク、は、シアワセ……?」

自分の体と同じ、ガラスで出来た鏡を目の前にして、△は言葉を失った。それに写る自分が、何とみすぼらしかったことか。ガラスを食べ続けた歯は欠けて、何も信じられない瞳は虚空を写して。つぅ……と静かな空気が触れただけで、体にはゾクリと震えが走る。


この世界でにんげんだけが、あたたかい体を持っているのに。

恋しくて、近付いたが最後。降り注いできたのは、冷たすぎる雨だった。


「お腹空いてない?何か食べたいものはある?」

熱のこもった、輝かしい瞳。そうやってボクに情けをかけて、近付いて。ボクを自分のものにしようと、自分の一部に取り込もうとするんだろう?△は脳裏で鮮明に、主人だった女のきらびやかな唇と、まとっていた酒の香りを思い出してしまっていた。


けれど、今△を見つめているのは、小さな少年だった。女みたいにごてごてと着飾ってもいないし、それどころか一向に受け答えしない△の様子を、不思議そうに首を傾げながら見ている。


「……あったかい、パンが食べたい。……いや、パン屑でいいから」

言ってしまった。△は、空腹に逆らえない自分と、ひとを疑うことをあきらめた自分に呆れた。

「!そりゃあいいや……!ぼくのお母さん、毎朝焼いてくれるんだ。ちょうどもうすぐ焼き上がるよ」

待っていて、と早口に、そして同じくらいの早足で、少年は姿を消した。


「キミは、チガウな」

△はそれだけぼそっと呟いて、待つことにした。ひとを避け、食べることをせず、歩き続けた体が上手く動かないのを理由にして。少年がパンを携えて戻るころには、きっと泣いてしまうだろう。



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