Act 5

 爆発音。それと同時に建物の三階の一部の壁が吹き飛んで、炎と黒煙が上がった。

 サイードはそれを見て、

「遅かったか」

 と、食いしばった歯の間からつぶやいた。

 あの火の手がニックスの仕業であると直感した。地獄の始まりである。

 サイードは自動小銃をとって、クルマを降りる。

(やはりニックスは死神だ。死をばらまくために生きている、動く災厄だ。無邪気に遊ぶ子供たちを、息子のように死なせるわけにはいかない!)

 復讐心と正義感を胸に、サイードはビルの玄関前に躍り出る。が、勢いで踏み込んでいくような愚行は犯さない。壁に身をよせ、屋内の様子をうかがう。

 ニックスの戦闘技量が高いのは想定済みだ。そうでなければ、お尋ね者の賞金首として今まで生きてこられるはずがないのである。そこは敵であっても認めるところで、だから決して油断してはならないのだ。ただの殺人狂ではない。

 人の気配がない。二階へ上がる階段を見つけた。階段は三階まで続いているだろうと思えた。

 爆発が起きたのは三階だ。ということは、ニックスは三階にいる。だがすでに煙は一階にまでやってきていて、上のフロアへ行くのは危険かもしれなかった。

 しかしサイードはそれでも階段に足をかけ、慎重に上っていった。

 ニックスを斃そうとするなら不意打ちしかないだろう。銃撃戦で勝てるとは思えない。つまり勝負は一瞬につく。だから予備弾は不要であると持ってこなかった。重い物はなるべく携帯したくなかったし、マガジンにある数発でじゅうぶんだとみたのだ。

 二階に着いた。

 そのまま三階まで行けるものと思っていたが、三階へ続く階段はそこにはなかった。二階フロアの離れた場所にあるようだった。

 そこまで行けないかもしれない。煙に巻かれて死んでしまうかもしれない。

 すると──。

 充満する煙のため、悪くなった視界の向こうから、誰かが走ってくるのが見えた。煙を吸わないよう身をかがめながら。

 ニックスではない。白衣を着た初老の男と、数人の十歳ぐらいまでの子供たちだった。

 白衣の男がサイードを認めた。

「ここにいたら危ない、すぐに下へ逃げるんだ」

 武装している見知らぬ男を警戒すらしない。というか、火事のためにそれどころではない様子だった。

「ニックスを見なかったか?」

 サイードは訊いた。自ら起こした火災で死ぬようなバカではないだろう。どこかでまだ死体の量産に余念がないのかもしれない。だがそれでも、ニックスにとっても火事は危険なはずだ。ここで待っていれば避難してくるだろう。そこを迎え撃てば勝てると踏んだ。

「ニックス……?」

 初老の男がその名を思い出すのに数瞬の間があった。

「ああ、ダヴォルカが連れてきた男だな。それなら地下倉庫にいたが……。あんたはその仲間か?」

「仲間なんかじゃない。やつはかたきだ」

 事情を知らないとはいえ無神経な言いように、思わず怒鳴ってしまったが、相手はそんなことにかまっていられない。

「ともかく、早く建物の外へ出よう。死ぬぞ」

 すると、また別の人影が奥のほうに現れた。

 逃げてきた人か──。

 目を細めるサイードの視界に映ったのは、信じられない生き物だった。

「! なんだ、あれは?」

 人間に似たシルエットではあったが、サイズが人間離れしていた。いくら大柄な男であっても、あれほど巨大ではない。しかも全身毛に覆われ、手足の長さのバランスが人間とは明らかに異なっていたのだ。それが禍々しい気配を猛烈に放って近づいてくる。誰が見ても脅威以外の何物でもない、本能的な危険を感じさせた。

「ひいいっ!」

 白衣の男は悲鳴を上げ、

「みんな、早く! 外へ逃げろ!」

 子供たちに叫んだ。

 その言葉に従って、子供たちは階段を下りていく。

 サイードは自動小銃をかまえたが、怪物は立ち止まらない。一発撃った。

 七・六二ミリの銃弾が胴体に命中する。血が噴き出たが、突進の勢いは変わらない。

 弾丸を無駄にできない。これはニックスを殺すために用意してきたのだ。

 が、そうも言っていられない。さらに二発を命中させた。

 倒れる怪物。だが殺すまでには至らない。あの様子では、単なる時間稼ぎにすぎないだろう。といって、残弾数が気になって息の根を止めることに躊躇する。

 それより、今は外へ出ることが先決だ。ニックスがこの建物のどこかにいるのは確かなのだから、この怪物を仕留めるのは今である必要はない。

 逃げた白衣の男と子供たちの後に続いて、サイードは階段を下りた。

 一階の廊下から玄関を目指す。

 が、その足が止まる。

 前方に立ちはだかっているのは、さきほど二階にいたのと同じ形状の怪物だった。玄関はその廊下の先にあり、ここを突破しないことには脱出できない。

 しかもその怪物が手に持っているのは、引き裂かれた人間だった。白衣を着ており、さきほど子供たちといっしょに逃げてきた男が不幸にも捕まってしまったらしい。大量の血が床に広がり、照明に光っていた。そのことからも凶暴性は明らかだった。

 子供たちは、恐怖のあまりその場にしゃがみこんで動けなくなっていた。

「どこに隠れていやがったんだ!」

 サイードは自動小銃を発砲する。残弾を気にすることなく弾を叩き込んだ。火事が広がっているのだ。ここで怪物を斃さなければ、ニックスを殺すこともかなわない。

 全弾を撃ちつくした。

 怪物は弾丸をくらって血を流しても、さほどダメージを受けているようには見えなかった。倒れることもなく、痛がるふうもない。

「ばかな! 胸を撃ちぬいたのに。心臓に命中したはずだ!」

 それとも胸に心臓がないのか?

 サイードは後ずさる。予備弾を持ってこなかったことを後悔した。

(こんなところで、こんな死に方をするのか……!)

 復讐を果たせないのと同時に、ここにいる子供たちを守ってやれないことが悔やまれた。

 武器は他にない。ナイフ一本さえない。もっとも、ナイフがあったところで勝てるようには思えなかったが。

 サイードは歯噛みし、怪物を睨みつけた。むざむざと手にかからないぞと、せめて抵抗の意思を見せる。

 怪物の腕が音をたてて振り下ろされる。

 よけられない速さだった。

 サイードは人形のように弾き飛ばされ、壁にたたきつけられる。まともに背中を打ちつけ、息が止まった。目がくらんだ。どこか骨折したかもしれない。発達した筋肉が生み出す凄まじいパワーだった。

 激痛に起き上がることさえかなわない。次になにをされるかわからないが、あと一撃くらえばもう死んでしまうかもしれなかった。

 近づいてくる怪物。それがニックスの姿と重なった。ニックスも凶悪だった。人間らしい心の欠片も見せなかった怪物によって息子は殺された。

(今度はおれがこんなわけのわからない怪物に、息子と同じように理由もなく殺されてしまうのか……。おれの人生は、息子の仇を討つためだけの数年間は、いったいなんだったんだ……)

 サイードは己の無力さを嘆いた。すべては無駄な足掻きであったと認めたくはなかったが、目の前の無慈悲な現実はサイードの願望を実にあっけなく打ち砕いた。こんな非現実なことがあっていいはずがない、これは夢かと思いたいが、体が感じる痛みは本物で、逃れられはしない。

 目に涙があふれた。痛みよりも悔しさで。

 怪物の手がサイードに伸びる。

 と──。

 腹に響くような破裂音がして、歩み寄る怪物の頭部から血と肉片が飛び散った。

 咆哮しながら、後ろへどすんと倒れる怪物。

 建物の奥の廊下から走りこんでくる人影があった。ショットガンを手にしていたその男は、倒れた怪物の上に立ち、その銃口を突きつけると、ためらうことなく引き金を引く。

 怪物の頭部が跡形もなくミンチになった。床に血が紅く広がる。

 その顔を見て、サイードの血がたぎった。脳に血液が届いて覚醒する。

「ニックス!」

 サイードはよろよろと壁を頼りに立ち上がるが、足元がおぼつかない。怒りに沸騰する気力だけで体を支えていた。だが、やっとまみえた目の前にいる仇に対し、あまりに無力だった。持っていた自動小銃は怪物の一撃でどこかへ吹っ飛ばされてしまっていたし、素手で戦えるほどの体力はなかった。

 ニックスは、そんな憤りに爆発しそうなサイードに注意を払わない。見えていないかのように。

 ニックスの後ろから男女が遅れて現れた。先ほど怪物に殺されたのと同じように白衣を着た眼鏡の男と、若い女、それに十歳ぐらいの少女、の三人。

「みんな、あの人に続いて屋外に逃げるのよ!」

 女が叫ぶと、二階から逃げてきた数人の子供たちが立ち上がる。

「おお、リサンドロ……」

 怪物に殺された男の名前だろう。血の海に沈む死体に目を向け、眼鏡の男は十字を切る。

「きみは誰だ? いや、そんなことより、いっしょに逃げるぞ。歩けるか?」

 白衣の男──エルンストは、傷ついたサイードに声をかける。仇を討つために来たサイードの事情などなにも知らないから、火事と怪物から逃げることしか頭にない。

「…………」

 サイードにも状況はわかっているが、冷静ではいられない。今やニックスしか目に入らない。

 そのニックスが玄関のほうに向けて再びショットガンをかまえている。

 銃口を向ける先を見ると、同じ形状の怪物が倒れるところだった。ニックスの射撃は確実だった。頭部を粉砕し、無力化していた。迷いのない徹底ぶりが死神を思わせた。が、同時に襲いかかる脅威から守護する強い力を見せつけられ、恐怖と絶望を消し去る存在でもあった。

 絶命した怪物──『S40ε』を乗り越えて、ニックスは玄関まで一気に、しかし油断なく到達する。その後にぞろぞろと続く男女と子供たち。

 サイードは取り落としていた自動小銃をとると、それを杖替わりにして歩く。

 ビルの外に出ると、火災が外の空気を熱くしていた。振り返ると、火はさらに燃え広がって、炎が盛大に三階から二階までを浸食しようとしていた。黒煙が高くまで上がり、化学物質の燃える独特の異臭が空気に混じって周囲に漂う。消火活動はいっさいなく、このままでは全焼してしまうだろう。

 ニックスは、近くに停めてある、乗ってきたとおぼしき小型車両の上にショットガンと肩にかけたサブマシンガンを置く。

 サイードも、乗ってきた小型車両へと足を引きずっていく。

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