Act 3
それはマティウにとって幸せな日だった。未来のない絶望のなかにあって、天からさす
「だいぶ良くなったわ」
包帯をとき、怪我の様子を見てマティウはニコリと笑う。
「さすがに若いだけあって、治りが早いわ」
傷口に化膿止めの軟膏を塗り、新しい包帯で巻き直す。
青年はマティウにされるがまま治療を受けていた。相変わらず名乗らず警戒心を完全に解いたわけではなかったが、少なくとも自分にとって必要だと思えることならマティウの言うことをきいた。
左腕と両足はまだ自由にはならなかったが、包帯を新しくした右腕だけは、どうにか動けるようになった。
その右手を動かして、乾燥ナッツをつまんで口へと運ぶ。
「以前はこんなナッツ缶も比較的楽に手に入れられたんだけどね──」
マティウは小さくため息をつく。最近はますます物が手に入りにくくなっていた。人間の活動そのものが、人口の激減により縮小していっているのをいやでも実感する。このままではいけない、と思いつつも、他にどうしようもない無力感がせつなかった。
もっと豪勢なものを食べさせてあげたくて仕方がなかったが、いくら食料庫の鍵をもっているとはいえ、無制限に食べ物を分け与えるわけにはいかなかった。食料は娼館キャラバン全員が生きていくためのもので、それを考えないわけにはいかない。
「オアシスに到着すれば、さまざまな食べ物が手に入るだろうから、それまでの辛抱よ」
それでも青年といっしょにとる食事は、マティウにとって至福の時間だった。
「
「あなた、キャラバンの人じゃないでしょ。豪族でもない……」
マティウは、のどまで出かかっていた言いたいことをやっと口にした。
「もし……もしも帰るところがないなら、ずっとここにいてもいいのよ」
青年はナッツをつまもうとした手を止めた。
「なんて言った?」
頬を赤らめて、マティウは青年の目をまっすぐに見られない。
「ここで暮らす気はないかって、言ったのよ」
「ここで……? おれにここで働けというのか」
マティウは青年が勘違いしていると思い、あわてて訂正する。
「体を売れ、と言うんじゃないの。そこまでさせようなんて言ってない。そういう仕事がしたいというなら反対はしないけど……そうじゃなくて、用心棒よ。ふだんはなにもしなくていいし……。あなたひとりをここにおくぐらい、どうってことないわ。
もし青年に愛する誰かがいたとしても、諦めるつもりはない。彼を己がものにしたかった。
「おれの腕を買うというのか?」
が、青年はべつの質問をしてきた。
マティウはうなずいた。
「おれの実力がどれほどなのか、おまえにわかるのか?」
「あなたなら、じゅうぶんよ」
「…………」
青年はしばし黙る。その間になにを考えているのか、マティウは不安になりながらもじっと答えを待つ。
「……なぜ……そうまでして、おれをひきとめる」
とりつく島もなく断られなかったことにほっとした。マティウはクスッと笑い、トレーのビスケットをつまむ。
「正直に言うわ。あたし、あなたが気に入ったの。あなたは最後世代でしょ。あなたのような若くて逞しい男はいなくなってしまったし……。全快したときが楽しみだわ」
マティウは体を乗りだし、青年に顔をよせた。息がかかるほど近づいて、
「あたしはこの娼館でも人気があるの。あたしのテクニックなら、きっとあなたも満足するわ」
自信はあった。なんの経験もないだろう未開発の若い体を、自分の思い通りに仕上げていける──それを想像すると期待に体がくすぐられたようにむずむずする。商売抜きで、なんでもしてあげたくなる、という感情は、久しく抱いていなかった。
それは、ダヴォルカを囲う娼館の親方と同じ気持ちだろう。ぜったいに手放したくない宝物のようなものであった。
「……………」
しかし青年の反応は鈍い。拒絶、というわけではないが、かといって喜んで受け入れるでもない。言葉が通じないようなもどかしさをマティウは覚える。青年の澄んだ瞳が見ているのは、マティウの背後の壁のさらに向こうに広がる砂漠かもしれなかった。それでも、
「安心して。あたしに身をまかせるの。怪我の治療を受けているのと同じように。そうしたらきっと新しい人生が開けるわ」
マティウは解き続けた。青年の心をつかもうと懸命だった。
黙々と食事を続ける青年は、マティウの言葉を聞いているのかいないのかわからなかった。
「ねぇ、親方さま。隣の部屋の男の子は、どうするつもりなの?」
ダヴォルカはベッドの上で親方に抱かれていた。
「なんだ、興味があるのか?」
個室の窓に月の冷たい光が入ってきていた。親方の傷のある顔が険しくなる。
「おまえはおれのもんだ。誰にもわたさんぞ。たとえ、おまえが欲しがってもな」
「わかっているわよ。単に訊いただけ。マティウがあんなに入れ込んでいるから、男娼にするなら人気がでるかもって……」
「ふん、そうだな。情けをかけてやっているんだから、しっかり働いてもらいたいところだ」
「あたいは働かなくていいのかしら?」
「おまえはおれにだけつくせ。おれの心はおまえだけのものだ」
ダヴォルカはくすっと笑う。誰でも自分に夢中になってしまう。それがおかしかった。
甘え声でしなだれかかれば、どんな権力者だろうとなびいてしまう。かつての庇護者だった豪族ムハンマドもそうだった。
この世界での女としての生き方を、ダヴォルカはすっかり身に着けていた。
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