Act 2
青年は最後世代だろう、と思えた。病嵐以降、新しい命は生まれなくなった。正確にはゼロではないのかもしれないが、限りなくゼロに近いはずであった。
十年ほど前のことであった。地球上からいっせいに女性が消えた。死因はウイルスによる罹患とされたが、その治療法は見つからなかった。治療法が確立される間もなかった。人類は世界人口の半数をほぼ一瞬で失い、瞬く間に国家は崩壊し、産業も失われた。医療体制は壊滅し、病嵐の研究などできようはずもなかった。ほんの少し、生き残った女性はいたが、彼女たちに人権はなくなっていた。貴重な存在であり、金で取り引きされる「モノ」となった。
しかし男たちの欲望は、どこかで昇華する必要があった。男娼が作られたのも自然な流れであった。
マティウがいるのは移動娼館で、彼は男娼だった。親方のもとで何人もの男娼とともに、町から町へと渡り歩いた。さまざまな町で、さまざまな人々を見てきた。頭ではわかっていたが、そこで実感したのは、人類は確実に老いていっている、という点だ。町からどんどん
部屋を出たマティウは細い廊下を通り、トレーラーの後部へと移動する。廊下にはいくつものドアがならび、さながら長距離列車のコンパートメント車両のような作りであった。他の高級男娼の個室であった。
トレーラー後部に達し、開けたドアから吹きさらしのデッキを臨むと、トレーラーの後ろにはまた別のトレーラーカーゴが連結されていた。
この移動娼館は、四台の連結トレーラー(居住設備や店舗)と、その護衛のための戦闘用小型車両六台から構成されていた。男娼は十五人を数え、用心棒も八人を抱えていた。
連結橋を渡るマティウ。
次のトレーラーカーゴ内の最初の部屋が食料保管庫だった。そこの鍵を持っている者は娼館でも限られていた。人気の高いマティウは貢献度が高いとして親方からも認められ、なにかと優遇されていた。なにもかもが不足している今の世で、昔のような生活ができる人間はほんの一握りだ。
ひんやりとした庫内。食料がなるべく傷まないよう冷房をきかせてある。この時代では贅沢な設備だ。
「どれがいいかしら……」
マティウは棚の引き出しをあけ、しばし物色してハムの包みを取り出す。今やハムさえも手に入れるのは簡単ではなかった。
地球環境の悪化による砂漠化の進行は病嵐の後急激に進んだ。原因は人間による環境破壊だった。病嵐が地球を席巻し、人間社会は大きく変動した。女のいなくなった世界で、男たちは絶望に身をさいなまれ、理性を失った。自殺者が増え、暴徒がおしよせ、虐殺が行われ、およそ考えられる最悪の事件が人間社会を破壊し、そして立ち直りかけた地球環境をも破壊し、食料の生産高も激減した。
人々はトウモロコシや大豆の粉で飢えをしのぎ、栄養失調による病気や食料争いで、ますます人口が減少した。
それでも、あるところにはある、とマティウは「人間の生きる力」のしぶとさを信じていた。
白いパンとハムの包み、それにピクルスを漬けた小瓶を持って食料保管庫を出る。熱い外気に触れて太った体に汗が浮き出すが、かまわず個室に戻ろうとした。
「ちょっと、マティウ」
ひとつの個室の前を通り過ぎようとして、声がかかった。ドアは閉じられていて、部屋のなかから廊下を歩くマティウの姿は見えないはずであったが。
「足音でわかるわ」
立ち止まったマティウが質問する前に答えがあった。なんと、女の声だった。
「三日前に拾った人が目覚めたんでしょ? だから食べ物を持って行くんでしょ?」
「あら、興味あるの?」
マティウの目が淫靡な光を帯びる。扉の向こうでなにを考えているのか想像し、意地の悪いことを吐いた。
「
「だって退屈なんだもの」
「だからって、親方の許可なしでその部屋から出してやるわけにはいかないわ」
娼館の親方は、移動中は運転席にいることが多かった。その親方が最近偶然手に入れたのがこの女で、扉の向こうの部屋に軟禁されているのだった。たいそう大事にし、娼婦にはせず(本人も望まなかった)寵愛していた。
この時代、女は「貴重品」だ。生きている宝石といってもよかった。誰もが欲しがるため、人の目に触れさせるわけにはいかない。いつ盗み取られてしまうかわからないと、親方は過度に気を使い、個室に閉じ込めていた。
「彼の世話はあたしがやくの。誰にもわたさない。じゃあね、ダヴォルカ」
マティウは自分の個室に向かう。言葉に出して言ったせいで、より青年への感情が確かなものになったような気がした。
自室のドアを開けると、青年が立ち上がろうとしていた。ベッドに手をつき体を支えて、けれども足運びが頼りない。
マティウはあわてて駆け寄り、持ってきた食べ物をベッドの上に投げだすと、今にも倒れてしまいそうな青年の肩をしっかりと抱きとめる。
「まだ起きてはだめよ。ひどい怪我だったんだから。血も足りてないわ」
青年はマティウの腕を振り払おうとするが力が出ず、簡単に押さえ込まれる。
「どこへ行くつもりだったの?」
青年は答えず、ぎらつく瞳でマティウを睨み返す。まるでこの世界のすべてが敵であるかのような眼光だった。たぶん、彼にとってはそうなのだろう。
それも無理ない、とマティウは思う。今の世界は過酷すぎる。強い者だけが生きられる厳しい世で、油断すれば死が待っているような人間関係しか目にせず、野獣のような者しか生き残れないのなら──。せめて愛する存在があるなら心を取り戻せるのに、女のいない現代ではそれは望むべくもない。
(なんて可哀想な
だからあたしが支えてやりたい、そうマティウは強く決意する。
「ほら、食べ物をもってきたわ。これを食べて。美味しいわよ」
力強い腕で青年をベッドに戻すと、持ってきた包みを開いた。コーティング紙の中から紐で縛られたハムが転がり出た。マティウはナイフで紐を切り、さらにハムを食べやすい大きさに刻んだ。
「はい、口をあけて」
「なんだ、これは……? 干し肉か?」
「ハムよ。見たことないのね。干し肉よりも美味しいわよ」
「……………」
青年は口を開かない。包帯で巻かれて自由に動かない手では食べられないが、だからといってマティウに食べさせてもらう、というのには抵抗があるようだった。
怪我をして保護された野生動物のように警戒して心を開かない青年に、マティウは髭の剃り跡の青い口元に優しい笑みを浮かべる。
その微笑みを敵意をもって睨みつける青年は、なかなかマティウのなすがままにしようとしない。
「さ、口を開けるの。食べさせてあげるから。遠慮しないで。さっきは水を飲めたじゃない……」
しばらくなにかを考えているふうの青年だったが、やっとのことでハムを口に入れた。目が見開かれる。
「どう? 初めてのハムのお味は?」
しばらく咀嚼し、青年は低く言った。
「こんな食べ物がこの世にあるのか……」
マティウは、ハムの味に驚く青年を愛おしく感じる。一片の幸福さえなかったのではないかと、青年のまだ短い人生を思った。
「パンもあるわよ。ピクルスもいかが?」
ハムを飲み込み、青年はやっと話した。
「あんたの言うとおりにしよう。怪我もしているし、体力が落ちているのは確かだ。一人で歩けないようでは話にならない」
「よかった!」
マティウは満面の笑み。
「パンをどうぞ。このパンも精製された小麦から作ったものなの」
今度は拳大のパンをちぎってみせる。焼けた表面が割れて、ふわふわの生地が膨らむ。
「これがパン? こんなやわらかいものが?」
「そう。これが本来のパンなの。あなた、堅い保存食ばかり食べてたの?」
「缶に入ったものか、軍用レーションを食べていた。塩漬けの干し肉や、乾パン、味はないが歯ごたえだけはある固形レーションだ……」
「むかし、病嵐が発生する前は、もっと豊かで誰もがこんな食事ができたんだけど……」
「そうか? おれは病嵐の前からトウモロコシの粉とかしか食っていなかったがな。今はその頃の難民キャンプにいたときよりはマシだと思ってる」
「ああ、なんてことなの!」
マティウは声を震わせた。
(やはりこの
思わず青年の頭を抱きしめてしまう。体温の高い分厚い男の肉のなかに青年の体が埋まってしまいそうだった。
「離れろ!」
反射的に怒鳴られて、マティウは体を離した。もし怪我をしていなかったら、突き飛ばされていたところだろう。
「ごめんなさい。あなたが不憫でたまらなかったの」
「おれのようなやつはいくらでもいる。珍しくもない」
「難民キャンプには友だちもいたの?」
「いや。同じぐらいの歳のやつは、みんな死んだ」
「それは寂しいでしょうね……。今まで苦労してきたんでしょ?
「
「言葉どおりよ。あたしと幸せになりましょう。そのためにも怪我を早く治さないとね」
マティウはウインクをした。薄幸のこの青年のためなら、どんなことでもしよう、と思った。若い、というだけでも価値があったが、そんなことより青年が発する野生じみた匂いがしきりとマティウの鼻をくすぐるのだった。
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