第3章 マティウ

Act 1

 追ってくるのは豪族警備軍だった。豪族ヤコフの手のものだろう。そうではないかもしれないが、いずれにせよ捕まるわけにはいかない。捕まれば死が待つだけだ。

 逃げているのはたった一人の男であった。青年といえるほどの若い男だ。いわゆる「最後世代」と呼ばれる年代で、彼より若い世代は生き残れなかったためにそう称される。

 クルマを失ってしまったのは痛かった。なんとか岩の多い丘陵地帯に逃げ込むことができたが、そうなると危険な谷沿いに進んでやり過ごすしかなくなった。立ち向かうための武器はないに等しかった。拳銃一丁では威嚇にもならない。他に火器は所持していたが持ち出す余裕がなかったのだ。

 道などない崖を、わずかな足掛かりをたどりながら進む。

 草さえ生えない乾燥した砂漠の岩山地帯は、身を隠すにはまだマシであったが、できるだけ遠くへ移動しなければ見つかってしまうだろう。追っ手は執拗だ。

 荒く削られたような崖の下は目もくらむような谷底で、足を踏み外したら最後、命はないだろう。おそらく谷底は乾ききっていて、水は流れていない。

 太陽は傾いてきていたが、夕暮れまでにはまだ時間がかかりそうであった。日没になれば、追っ手には見つかりにくくなるだろう。しかしこの崖の途中で日暮れを迎えるのは追っ手の存在より危険度が高い。闇のなかでは崖の様子がわからずほんの少しも進めない。かといって足場の悪い崖の途中では眠るわけにもいかない。一刻も早くここから脱出しなければならなかった。

 その焦りが注意力を削いでしまった。

 踏み出した足の下にあった石が崩落した。

 体が宙に浮く。

 しまった、と思ったときには──。

 そのまま崖下へと青年は滑り落ちていった。崖の途中にはつかまる木も生えておらず、そのまま光の届かない深い谷底へと──。



 車列はオアシスに向かっていた。四台の大型車両はトレーラーで、数台のトレーラーハウスをつなげており、それらを六台の小型車両が護衛している。

 比較的規模の大きな車列であるが、しかしただのキャラバンではなかった。

 つなげられたトレーラーハウスの一台──。

 その室内で、マティウは心配そうな眼差しをベッドのほうに向ける。長い髪を肩に垂らした、四十歳ぐらいの中年男のひげ剃り痕の青い口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。

 清潔で高価な調度品の置かれた、クルマのなかとは思えない、今どき「豪華」ともいえる部屋で、マティウが穏和な視線を向けるベッドには、一人の青年が横たわっていた。二十歳にもなっていないだろう。打撲傷だらけで、腫れ上がった箇所が青くなって痛々しい。

 不意に青年のまぶたが痙攣し、かっ、と見開かれた。焦点を結ぶその瞳はこれまで意識をなくしていたとは思えないほど鋭かった。その瞳孔がマティウを睨みつける。

「よかった、やっと気がついた……」

 ベッドサイドにおいた円イスに座り、マティウは優しく声をかけた。

「安心して。怪我の治療は済んでいるから」

「ここはどこだ?」

 目玉を動かして周囲を見つつ、青年が起きあがろうとすると、マティウは彼の肩をそっと抑えて、

「まだ寝ていなくちゃだめ。治療したといっても、怪我が治ったわけではないのよ」

 青年はそこで初めて己が体をみる。衣服が脱がされ、包帯が巻かれていた。包帯は真新しく、何度か取り替えられていたようだ。血で汚れてもいない。

「包帯が珍しい? まぁ、そうかもね。あなた、怪我の治療なんかまともにしてもらったことがないんじゃない? 古い傷痕が体じゅうにあったし。あら、ごめんなさい、まだ名前を言ってなかったわね。あたしはマティウ。男娼よ。そしてここはあたしの部屋。あなた、名前はなんていうのかしら?」

「…………」

 青年は答えなかった。だが名乗らないのをマティウは非難しない。

「警戒しているのね。危害は加えないわ。谷底で倒れているところを偶然通りかかったのよ。崖から落ちたのね。さ、喉が渇いているでしょうから、お水を飲むといいわ」

 マティウは、骨ばっているがきれいに手入れされた大きな手で水差しを差し出す。ガラス製の水差しに澄んだ水が入っていた。

 しかし青年は受け取らない。水差しの水を値踏みするように見つめている。

「毒なんか入っていないわ」

 マティウは水差しの水を一口ふくんだ。

 それで安心したのか、青年は水差しをつかもうとするが、包帯だらけの右腕を上げかけて途中で止まる。

「ごめんなさい。その怪我じゃ動かせなかったわね。あたしが飲ませてあげる」

 マティウは太った体を押しつけるようにして青年の口元に水差しを近づける。が、青年は身をよじる。

「動かないで。よほど怖い目に遭ったのかしら。あたしはなにもしやしないわ」

 やっと飲んでくれた。いっきに全部。

「そこらの泥水とは違って、おいしいでしょ。なかなか手に入らない山の雪解け水よ。冷たければもっとおいしいかもしれないけど、さすがにそこまではね。もう一杯いかが?」

 青年はうなずいた。

 マティウはその反応がうれしくて、抱えたガロンボトルの水で空になった水差しを満たす。

「おれは……、どれぐらいここで眠っていたんだ?」

 二杯目の水を飲み干し、青年は訊いた。

「三日よ」

「三日……。その間、ずっと移動してたのか?」

 クルマの走る振動で、移動しているのがわかったようだった。

「そうよ」

 青年はまた黙り込んだ。なにか考えている様子。

「どこかへ行くところだったとしたら申し訳なかったけれど、あのとき──」

「このクルマはどこへ向かっている?」

「オアシスよ。あと四日ほどで到着するわ」

「オアシス…………」

「そうだ、食べ物を持ってきてあげるわ。お腹すいてるでしょ?」

 マティウは立ち上がる。

「なぜおれを救助たすけた?」

 行き先がオアシスと聞いて黙ってしまった青年が、語気鋭く尋ねた。

 部屋を出ようとしたマティウはドアの前で振り返る。そして笑顔で言った。

「決まってるじゃない。あなたがいい男だからよ」

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