第2章 ムハンマド

Act 1

 かつては別の名前で呼ばれていたこの町は、いまは豪族ムハンマドが支配していた。病嵐以前から半世紀以上も断続的にこの地域で起きる内戦によって、発展することなく荒廃していたが、大陸での交通の要所に位置したせいで見捨てられることなく人はそこに住み続けていた。たとえどれほど過酷であろうと──。



 三メートル四方ほどの小さなその部屋は地下かと思うほど暗かった。電気はなく、窓は冷たいコンクリートでほとんどがふさがれており、明かり取りの隙間が天井付近にほんのわずかに残されているだけである。金属製のドアには外側から鍵がかけられ、出ることはできない。

 牢屋であった。

 一人の男が閉じ込められていた。年齢は二十歳に達しているかどうかの青年であった。部屋の隅に座り込んで、時間が停止してしまっているかのように動かずにいる。頬はこけ、伸びた髪は土埃で汚れていたが、目だけは異様なほどの生気をたたえ、ぎらつくような鋭い光を放っていた。それは、獲物に飛びかかろうかとする野獣のような瞳であった。

 ここへ放り込まれてから四日がすぎていた。いつ出されるかはもちろん知らされていない。十日なのかひと月なのか、それとも数年か、あるいは一生出されることはないかもしれない。しかし絶望した顔はしていなかった。過酷な境遇には過去にずい分と遭ってきていた。それに較べれば──。

 不意にドアの外に気配がして、青年の目が向けられる。

 するとドアの鍵がはずされる耳障りなほど大きな音がして、ドアが錆びた音をたてて開いた。

「出ろ」

 ドアの向こうに立つ男が命令した。回転式の拳銃を右手に、油断なく虜囚の青年を見やる。その目には、威圧的な態度とは裏腹に、怯えがあった。なにか不審な挙動があれば拳銃を撃とうという。

 青年はおもむろに立ち上がり、無言で部屋を出てくる。その骨ばった手には手錠がはめられていた。

 部屋の外は廊下になっていた。部屋の中よりはまだ明るかったが、それでもここも電気がないので、外光の差し込む窓だけが頼りだ。あともう一人、男がいた。両手にサブマシンガンを抱えていた。

 ぴりぴりとした緊張感が漂う。過剰なほどの警戒だ。

「歩け。ゆっくりとだ。へんな真似はするなよ」

 拳銃をつきつけながらも恐れていた。怪物を見るような目であった。サブマシンガンを持った護衛がいて、丸腰のうえに手錠まではめられている青年に対して、それは滑稽なほどの光景であった。

 三人はゆっくりと歩いた。廊下を進み、階段を上がってたどり着いた部屋の前。両開きの扉の前に立ち、大きな声で言った。

「ニックスを連れてきました!」

「入れ!」

 すぐに返事があった。

 扉を開き、男は、虜囚の青年──ニックスに室内へ入るよう、うながした。ニックスが部屋に入っていくのを確認すると、扉を閉め、大きく息を吐いた。緊張が一気にとけて、その場に座り込んでしまった。死神ニックスと呼ばれた青年のオーラはそれほどまでに強かったのだ。



(あれが、死神ニックス──)

 謁見の間とよばれる大広間にひったてられて来た青年を見て、豪族ムハンマドの警備軍団長アルカジーは目を細める。

(若い。こんなガキが死神と恐れられるニックスなのか?)

 手配書の写真よりもずっと若く見える。

 これまで殺害してきた人間の数は百人ではきかない、と聞く。豪族警備軍のなかには戦争で大勢の人間を殺した兵士もいるだろう。だがそんな特別な事情ではなく、ただ己が生きるためだけに他人を殺してきたニックス。眉一つ動かすことなく引き金を引く冷酷さは死神の二つ名に相応しい。大量の薬物ドラッグを摂取しているのだという噂もあった。だから麻薬の影響を見定めるため四日も牢屋に閉じ込めていたのだが。

頭目ムハンマドはこんな男をどうしようというのだろう?)

 謁見の間──かつてはダンスホールとして使われていたとおぼしき広い部屋の奥、一段高い場所にしつらえられた肘掛け椅子に身を収めている豪族の頭目ムハンマドの発言に、その場にいた全員が息をつめて注目する。アルカジー他、警備軍の幹部の他、豪族の主だった幹部が顔をそろえている。

「きさまが死神ニックスか?」

 太い声が広間に響いた。他者を従わせる支配者の声音であった。

 ムハンマドが猛禽類のような鋭い視線を向けている先に、ニックスが黙って立っている。まわりはすべて敵であり、銃を持った警備軍の親衛隊がいつでも射撃できる態勢にあるなかで、まったく物怖じしない態度で、ムハンマドを視返していた。はめられた手錠を気にするふうでもなく、値踏みするような目で。

「おまえは誰だ?」

 ニックスが口を開いた。若い外見に似合わないしわがれた声だった。

「そうだな、自己紹介が遅れたな」

 ムハンマドは愉快そうに口の端をゆがめて返答する。

「おれはムハンマド、この豪族の頭目だ」

「おれになんの用だ」

「おまえが豪族ヤコフから多額の懸賞金をかけられたお尋ね者だというのは承知している。ケチな豪族なら、おまえを捕らえたりせず、ブチ殺して、切り落としたその首をヤコフに持っていったろう。だがな──」

 ムハンマドは右の肘掛けにかけた体重を左側にあずけなおす。

「おれは違う。ヤコフの機嫌をとるなど、やってたまるか。おれはいずれこの大陸を統一する。ヤコフなど、いつか滅ぼしてくれる」

 豪族ヤコフは、この大陸で最大の勢力を誇る。他の豪族は、それを苦々しく思うものの、真正面からぶつかっても勝てる見込みもなく、共闘するにもお互いが疑心暗鬼にかかり牽制しあっているため、多少の不満はあっても腹に収め、ヤコフにつぶされないよう表面上友好的に振る舞っていた。

「そこでニックス、おまえの腕を買いたい。ひとりでキャラバンを襲って護衛を蹴散らし、賞金稼ぎの旅賊が現れても返り討ちにする、その戦闘技術は、おれの豪族くにを大きくするのに必要だ。もちろんそれなりの報酬は払う」

 ムハンマドは、懐に入れた手を引き抜くと、握っていたものを見せる。小金貨だった。

「おれの申し出を受けて、警備軍の傘下に入れば前金としてこれをやる。戦争で手柄を立てればさらに報酬を支払おう」

「戦争だと?」

「そうだ、戦争だ。他の豪族との戦いに勝ち続け、いずれは大陸の覇者となる──それがおれの目標だ。それには強力な軍団が必要だ。おまえはその一員になれる資質を持っている。だから報酬までやろうというのだ」

「断る、という選択はないんだろ?」

 ムハンマドはニヤリと笑う。

「察しがいいな。そのとおりだ。おまえに選ぶ権利などない」

 ニックスは、ひとつ吐息をもらす。

「わかった。いうとおりに警備軍に入ってやる」

「そうこなくてはな」

 ムハンマドは指にはさんでいた金貨を放り投げる。

 目の前に転がってきた金貨をおざなりに拾い上げるニックス。それを見て、

「交渉成立だな」

 ムハンマドは満足げにうなずいた。



 アルカジーは気に入らなかった。

 こんなやつが警備軍で戦力になるとは思えなかった。警備軍は集団で戦う。単独でキャラバンを襲って生きている男に、規律ある戦闘などできるとは思えなかった。

 過去に、豪族ヤコフの警備軍の兵隊だったらしいが、そこで二十人もの仲間を殺害して脱走した経緯から、今度も裏切る可能性はおおいにあると考えられた。

 頭目はずい分とニックスを買っているようだが、アルカジーは懐疑的だった。

 警備軍の一員となったニックスだったが、アルカジーは特別扱いはしない。謁見の間から連行した先は、「宮殿」と呼ばれている町で最大のその建物ビルの外、鉄条網で囲まれた一郭に建つ家畜小屋のような粗末な木造建屋であった。

 奴隷兵士の居住棟だ。

 アルカジーはそこではじめてニックスの手錠を外した。

「おまえはここで寝起きし、ここにいるやつらとともに我々の指示する訓練に参加するのだ。脱走すれば問答無用で銃殺刑だ」

 ニックスは無表情で黙っている。

「頭目がどれだけおまえを評価しようと、警備軍団長であるこのおれは甘くはないぜ。おれの編成で動いてもらうからそのつもりでいろ。その金貨もよこせ」

 ニックスは握りしめていた手を開く。アルカジーはそれを取り上げる。

「こいつは預かっておく。おまえが手柄をたてて出世したなら返してやる」

 無言でいるニックスの顔面に叩きつけようとした拳が空を切った。ほとんど同時にアルカジーの足が払われる。が、アルカジーは倒れない。瞬時に体勢を立て直してニックスに対峙した。

 そのときには、アルカジーの後方に控えていた部下の兵士が自動拳銃を抜いてニックスに向けている。

「チッ、ムカつく野郎だぜ……」

 アルカジーは言い捨て、きびすを返して宮殿へと戻っていった。

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