Act 3

 振動を感じて目が覚めた。ぐるりと周りを見回し、まだ薄暗いことを認識する。状況がわかるのにやや時間がかかったが、クルマのフレームに縛りつけられていたのだと、今、思い出した。エンジンの音が規則正しくやかましい。ガソリンエンジンの排気ガスの臭いと振動。

 すでにクルマは動き出していた。

 ニックスが防弾鋼板に囲われた運転席について前を凝視している。が、前にのみ注意を払っているわけではなく、三六〇度、まるでレーダーのように周囲の気配をうかがっているのだろう。ちょっとした変化にもすぐに気づけるように。シムスが起きているのにもとっくに気づいているに違いなかった。

 クルマのスピードはそれほど速くない。昨日、砂漠を快走していたような、砂塵を巻き上げての走行ではない。川底にいるため、両岸がちょうど遮蔽物となって、牽引しているトラックの姿までが見えにくくなっている。となれば、逃げるように急ぐ必要もない。もちろん、ことさらゆっくり行くわけでもないが。

 順調にいけば、明日には湖の跡にたどり着けるだろう。かつてこの先にあった湖に、今や一滴の水さえなかったが、そばの丘に口を開ける洞窟の奥には、まだ水が湧き出ていた。

 明日にはそこへ着く。ということは、シムスの命もそこで尽きてしまうかもしれないのだ。

「なぁ、ニックス。朝メシは食ったのか?」

 シムスは声をかける。地平線から朝日が顔を出し、川岸の影が川底に長く落ちていた。

「喉が渇いてるんだ。水を飲ませちゃくれねぇか?」

 返事はないが、聞こえているはずであった。

 やや間があって、クルマが停止した。

「どうした、なにかあったのか?」

 クルマのフレームに縛りつけられているシムスには前方が見えない。

 ニックスは相変わらずの冷たい眼でシムスを見やり、

「おまえに水をやる。干からびて死んでもらっては困るからな」

 まさかすぐに水を飲ませてくれるとは思っていなかった。意外であった。

「ありがたい。ついでに食べ物もほしい」

「食べ物か……」

「あ、ああ、そうだよ」

 シムスは大げさな仕草でうなずく。腹が減っていた。

「どうせ殺すから食べ物がもったいない、なんて思っちゃいねぇだろ?」

 そこまで鬼のようではないだろうと、確かめるように言った。

 するとニックスは無言で運転席を降り、牽引しているトラックの荷台へと回り込む。しばらくして戻ってきたその手には、あちこちへこんだ水の入ったペットボトルと、乾パンのレーションがあった。シムスの前にそれを置くと、用心深く拳銃を確認してからシムスの縄を解いた。

 シムスは自由になった手でペットボトルに入った茶色く濁った水を飲む。衛生的な水など、今の世では手に入らない。とくにこんな砂漠地帯では。しかし飲まないでは生きていけなかった。

 あぐらをかいて、シムスが水を飲み、乾パンを食べている間、ニックスは正面に位置して拳銃リボルバーのグリップを握っている。銃口は向けていないし引き金に指もかけられていないが、いつでも撃てる体勢だ。安全装置は外してある。

 ニックスの態度は会ったときから同じで変わらなかったが、銃をつきつけられての緊張する食事もそろそろ慣れてきた。

 乾パン数個という少ない食事でも文句を言うつもりはない。砂漠にいて、次に食料を得られる見通しがない以上、節約は当然のことだ。

「なぁ、ニックスよ」

 堅い乾パンを苦労して飲み込み、解消されない空腹感に名残惜しい心持ちで空のレーションパッケージから目を離すと、シムスはやおら話しかけた。

「おれには水場の他に、もうひとつ、とっておきの情報があるんだ。こればっかりは教えたくはなかったんだが、おまえさんの腕を買う条件で教えようってんだ」

「おれの腕だと……?」

 ニックスは眼を細めた。警戒心がさらに強くなったように。

「おまえさんの戦闘技術さ。賞金首なら今まで何度も手練れのヒットマンから襲撃を受けてきたろうが、それでもこうして生きてこれているのは、ひとえにその類稀たぐいまれな戦闘技術にあるわけだろう?」

「まどろっこしいな。なにが言いたい?」

「女のいる町に連れて行ってやる。だからそこまで安全に道案内させてくれ」

「なにを言い出すかと思えば──」

 ニックスは唇の端を歪めた。初めてその顔に表情が現れた。

「呆れたものだな。命乞いなら、もっと現実的な話をしろよ。水場ならまだしも、女だと……」

「本当だ。病嵐に罹患せずに生き残った女がいるのは知っているだろう? 今やどんな宝石や貴金属よりも値打ちのある存在だ。そいつが欲しくはないか?」

「水場の湧き出る場所ならまだ水が手に入ると思えるが、女のいる場所となると、どこかの町だろうが、たとえその場所を知っていても手に入るとは思えん」

 ニックスの反応はもっともであった。現在、女を「所有」しているのは、一部の有力な豪族だけだ。そしてその女に近づけるのは、豪族のリーダーのみか、それ以外なら幹部クラスの人間に限られる。さまざまな物資を取引するキャラバンであっても、女を売買することは滅多にない。まさに幻の存在とまでいえた。病嵐が始まってからこの十年、生身の女を見た人間は、全人類のなかでもほんの一握りだと言われていた。

 それをシムスは、欲しいか、と訊いた。手に入るかのように。

「豪族警備軍に堅く守られた建物に女は軟禁されているだろうが、近づけば問答無用で銃撃されるだろう。そんな危険まで冒して女に手を出すのは愚か者だ」

「それがそうでもないのさ。極秘のルートがあるんだ。おれだけが知っている」

「信用できるか」

「今や、生き残っている人類はほぼ男だけだ。女を楽しむのをあきらめる気持ちはわかる。だが女はいいぞ、一度楽しめばわかる。おれに任せろ」

「食べ終わったんなら、おしゃべりも終わりだ。また拘束させてもらう」

「いいかげん、もうおれを信用してくれてもいいだろう」

 シムスをロープで縛るニックスは無言だった。だが少しは会話を重ねられたことで、シムスは、これでいいと思った。死神とあだ名されても人間だ、いつかは心を開いてくれるだろう。

 ニックスは孤独だ。完全な孤独に耐えられるほど、人間は強くできていない。

 結び目を確認し、ニックスはやっと言った。

「おれはだれも信用しない。信用したら、その瞬間に殺される。油断したやつは死ぬのが、この世のルールだ」

 シムスは、鋼鉄のようなニックスの心を見て、唐突に言ってやった。

「おまえはなんのために生きてるんだ?」

 生きるためだけに生きている──。その他に生きる理由はない。それは人間の生き方といえるのか。

 案の定それに答えることなくニックスは運転席へと戻っていった。エンジンがかかり、振動が車体を揺らす。

 クルマは走り出した。水場に着くまであと一日。それまでになんとしてでも、ニックスを信用させなければ──。

 シムスは迫り来るタイムリミットに、焦りを感じずにはいられなかった。

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