『もう一つのはぐれ話:鼠とメイド』
沈黙は空気を鉛のように重くしていた。鼻から吸う空気が砂塵のように肺に詰まる。口から吐き出すと、砂利が零れるんじゃないかと錯覚するくらい口の中が渇いた。
「狭い部屋ですみませんね。申し訳ありませんがベッドは私専用なので、あなたはその床で眠りなさい」
細見の銀髪メイドが、僕の目の前で着替え始めた。ボリュームあるメイド服の下は驚くほど華奢で、いとも容易く僕からナイフを奪い取るほどの力があるとは思えなかった。
奪われたナイフは、メイドの枕元の棚に律義に並べられている。本数は四本、半数以上は食糧庫に突き刺さったまま。こっそり抜け出せば、一本くらいは回収できるだろう。
あの男には復讐してやりたい。僕の心に黒く煮えるような炎が灯っていた。あの蔑んだ目は、僕の人生において何回も向けられてきた。視線は刺さる。血も出ないが、その黒い矢は深く僕の身体に刺さり、奥の奥にある大事なところにその切っ先を食い込まるのだ。
「良くないこと、考えてませんか?」
メイドはまるで声に出ていたかのように僕の考えを見透かしていた。
「あんたには関係ない」
「確かに、その通りですね」
興味の無さそうな返事をして、メイドは薄いパジャマのような服に着替えを終えた。そして、自分はベッドに腰掛けると、シーツを雑に丸めて俺になげつけた。
「使いなさい。そんな生活をしているのだから、身体は丈夫だと思います。しかし、もし風邪を引かれても迷惑なのでそれで暖を取りなさい」
「施しなんて要らない!」
「奪うことは知っても、貰うことは知らないのですか?」
メイドは俺を見ることなく呟き、棚に置いてあった小さな本に手を伸ばした。
僕は文字が読めないから、本というものに存在意義を感じない。それでも、少しだけメイドの表情を緩めたそれは、少しだけ凄い物なのかもしれない。
渡されたシーツで体を包む。いつぶりの寝具だろう。これがあれば毎晩土の冷たさを感じる必要も無いんだ。
「……ふかふかでしょう?」
「土よりはな」
丸くなる俺を横目で見て、メイドは鼻で笑った。
時間をおいて、本のページが一枚ずつ捲られていく。文字を追う目は真剣そのもので、僕が動いても一切気付かないほどかもしてない。
少しだけ動いてみた。するとすかさずメイドは本を閉じて俺に顔を向けてくる。
「どうかしましたか?」
言葉こそ柔らかいが、警戒していることは肌で感じる。こいつが起きている時に動くのは無理だ。諦めよう。
「……寝ないのかよ」
「刃物を振り回す泥棒が同じ部屋にいるのに、寝るわけないでしょう?」
「お前は僕が怖いのか?」
「私は小動物に怯える人間ではありません」
この女も僕のことを馬鹿にするんだ。悔しいけど非力な拳じゃ何もやり返せない。
ナイフさえあれば、寝首をかけるのに……。
「…………」
メイドは急に本を閉じ、僕から没収したナイフを一つ手に取った。
「手入れのされていない、汚いナイフですね」
メイドは指先でナイフをくるくると回し始めた。まるで手に吸い付くように旋回するナイフが、僕を釘付けにする。
「ナイフの使い方は本来、食事をするためのものです。人に向けるためのものではありません」
「それは、僕の剣だ。噛みつくための牙だ」
「子供の頃の牙は抜けるんですよ。大人になると」
メイドはナイフを回しながらベッドを降り、僕の元へ歩み寄ってきた。
そしてしゃがみ込むと、僕の目の前にナイフの持ち手を向け、首を傾げた。
「……何のつもりだ」
「欲しいのかなって」
何を考えているのか分からなかった。恐る恐る受け取ると、メイドは簡単に手を離してくれた。
間髪入れずに僕はメイドの首にナイフを突き立てようとする。だが、気が付いたらナイフはまたメイドの指先でクルクルと回っているではないか。
「動きが単調すぎです。それに、技術もない。あなたは戦闘センスがそもそも無いんです」
そしてまた、メイドはナイフの持ち手を僕に差し向けてくる。
そのやり取りを何度行っただろうか。疲労と眠気から、メイドからナイフを受け取ろうとした時に朦朧として、ナイフを落としてしまった。
「まだ、やりますか?」
メイドが優しく聞いた。僕は、首を横に振るしか出来なかった。
「じゃあ終わりにしましょう。早く寝なさい」
メイドは落ちたナイフを拾い、再びベッドに戻った。
「私が寝てからナイフを取ろうなんて考えも無駄です。私は三日寝なくても平気なので……まぁ肌問題的には気になりますが」
メイドは再び、本を手に取る。
すぐに没入して、無音の世界へ沈んでいった。いつも感じている独りの夜よりも、何故か寂しく感じてしまう。
「……その本、そんなに面白いのか?」
「この本は、目の見えない作家が暗闇の中に光を見出して書いている作品です。色彩のイメージや物の捉え方が独特で、何度読んでも理解が追い付きません」
メイドは苦笑いを浮かべ、ページを捲った。
「この本を理解できた時、私も何か光を見つけることが出来るのかもしれませんね」
「目が見えない奴に光なんて見えるわけがない」
「見えますよ。光は誰にでもあるのですから」
「僕には無い。真っ暗だ。人も人生も生き方も」
「闇はあくまで光の副産物です。いつかあなたにも分かる日が来るはずですよ」
「そんなの、あんたに分かるもんか」
「分かりますよ」
メイドは、もう一度答えた。
「分かります」
何か否定してやろうかと思ったけど、不思議と言葉が出なかった。黙って頷いてから、自分がなぜそうしたのか驚いた。
「今はまだ、夜なのです。寝てしまえば、少しは朝が近づきますよ」
メイドはそれを最後に、何も言わなくなった。いつまでも本を捲る姿は、見ていると僕の意識も眠気で遠のいていく。
「……おやすみなさい」
薄れゆく意識の遠くで声がした。
でも、僕はそれになんて返せばいいのか覚えてなかった。
「……うん」
倒れ込むように、シーツに横たわる。甘い香りが僕を撫でてくれた。
久しぶりに、僕は熟睡した。
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