『猫を噛む鼠は』
夜は長い。数時間してメリア達が帰って来る音がした。随分と長湯をしたようで、俺の体内時計では既に零時を回っていた。
二人の声はすぐに自室へと消えていった。そして、すぐに音の無い夜に包まれる。
聞こえる音は、外で揺れる草木のさざめきと自分の吐息だけ。何も聞こえないという特別な空間で、研ぎ澄まされた聴覚が普段の景色を別の世界のように彩った。
見えなくとも鮮やかだ。
「デュランタが感じている世界も、こんな感じなのかね」
色の無い世界に鮮やかさを見出す彼女は、どんな世界を見ているのか。きっと聞いても分からない。だからこそ、想像するのが楽しい。
アンドロイドは完璧な造りをしているからこそ、盲目は無い。だから、想定されない世界だ。理解できないことは、時に何よりも素晴らしいものなのかもしれない。
その時だった。静かな世界に訪問者が現れた。
水面に小石が落ちるように、景色が一変する。真っ暗な世界の中に、明らかに何かが加わってきた。どこからだ? 分からなかった。だが、呼吸と足音、そして気配が手に取るように感じる。
声をかけるべきか?
まだ早い。こちらが見えない以上、あちらも俺が見えていないはずだ。足取りからしても、存在に気付いていない。だったら、何か決定的な瞬間をとらえてから行動しても遅くは無い。
何かは、物色するように食糧庫を歩き回っていた。足音の感覚がやけに短く、小さい。マグナムのような大男では無さそうだ。四足歩行でもない。野犬や何かでもないか。だったら……まぁ人間なんだろう。
音を立てないように、這うようにして何かについていく。俺はいつの間にか、息を止め、額に汗を浮かべていた。
そして、何かは足を止めた。そして、ガサゴソと漁る音が広い食糧庫に響く。
俺はすかさず近くにあった電気のスイッチを点けた。目もくらむほどの光に包まれ、俺も目を細める。
「そこで何をしている、コソ泥」
声をかけるも、返事がない。
光に目が慣れると、泥棒の全容が明らかとなった。
俺は目を疑ったよ。まさか……子供だったなんて。
「何をしているんだ。というか、誰だお前は」
子供に問いかける。何とも身なりの貧しい少年だった。年は十歳か、小さな体は泥まみれだ。履物も身に付けず、裸足で食糧庫を歩き回ったから足跡もついている。
「みすぼらしいなぁ、まるで……」
そこまで言って、思い出した。
「お前……前にカブの家から出てきた子供じゃないか」
子供は敵意剥き出しの表情で睨むだけで、何も言わなかった。
あの顔、たしかにそうだ。メリアにぶつかって逃げた、ストリートチルドレンじゃないか。
「あの時、メリアから財布を盗んでおいて、今度は家の物まで盗むってか?」
近づくと、手元にあった玉ねぎを投げつけられた。それを片手で受け取り、そのまま籠へ投げ返す。
「お前の境遇は可哀想に思うが、だからといって泥棒を見逃すわけにはいかないな」
「来るな!」
「そうはいかない。お前を捕まえないといけないんだから」
「来るな!!」
今度は近くのものを机ごとひっくり返した。いくつもの食材が転がり落ち、トマトなどの柔らかいものは床に潰れて使い物にならなくなる。
「やめろ。これ以上罪を重ねるな」
気にせず近づき、子供の腕を捕まえた。
「俺も寝たいんだ。さっさと補導されてくれ」
子供は絶望に飲み込まれたような表情で掴まれた腕を見た。そして、懐に空いた手を突っ込む。
取り出したのは、小さなナイフだった。どこで拾って来たのか、まったく手入れされていない刃は錆びすらついていた。
子供は容赦なくそれで俺の腕を切りつけにかかった。反射的に手を離して距離を取る俺に、子供は何か希望を見出したように余裕のない笑みを浮かべた。
「こ……殺されたくなかったら食い物を置いて出ていけ!」
「……」
ナイフ一本で形勢逆転した、と勘違いさせてしまった。
俺が避けたのは、あくまで反射だ。その気になれば、ナイフが俺に届く前に子供の腕をへし折ることだって出来た。子供にとって、何一つ好転していない。
「泥棒に続いて銃刀法違反か。これ以上暴れると、牢屋で一生を終えることになるぞ」
もう一度近寄って手を伸ばした。
再び突き出されたナイフを、今度は何ともなしに叩き落とす。ナイフは床に浅く刺さった。
「あ……あぁ……」
「諦めな」
胸倉を掴み、持ち上げた。軽すぎる。片手で子供は浮き上がり、なすすべなく宙吊りになった。
「さて、メリアとカリメロに報告しないと__」
食糧庫を出ようとしたとき、胸倉を掴む腕に激痛が走った。手が離れ、子供が床に落ちる。
「お前……」
腕を見ると、古いナイフが深々と突き刺さっていた。変な神経を傷つけたようで、どんだけ意識を向けても左手が握れない。力なく開いたきり、指一本動かなかった。
「次は殺すぞ……金持ちめ……!」
子供はまだ数本のナイフを構え、俺の顔めがけて投げつけてくる。技術こそないが、適当に投げても危険なものだ。払いのけようとつい刺された腕を振りかざしてしまった。痛みで正常に動かない腕は、いくつかナイフを対処しそびれ、頬や首に小さい切り傷を作った。
正直、ピンチだ。腕が動かないのは、明日にでもサンに修理してもらえばいい。
問題は錆びた切っ先だ。もはや毒と同様の害がある。破傷風のように体内から蝕まれてしまえば、いくらアンドロイドとはいえ笑っていられない。
「……これくらい怪我させられたし、いいか」
俺は腕に刺さったナイフを抜き、子供に思い切り投げつけた。
ナイフは子供の足先数センチの床に、持ち手の半分まで深く刺さる。
「自分は怪我させられないって思ってないか? 泥棒」
俺は本気で対峙する。子供だろうが関係ない。武器すら持っているし、攻撃性も高い。放っておけばメリアにも危険は及ぶだろう。
インプットされている知識が、この泥棒を戦闘不能にしろと訴えかけてくる。
これは正当防衛、仕方がない。
「歯をくいしばれ」
右手を握りしめ、子供の反応速度を遥かに凌駕する速さで間合いに入った。
そして、鈍い音が食糧庫に響いた。
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