『俺は君のことをそう呼ぶ』
パパ。
そう呼ばれた。
呼ばれてしまった。
なんてことのない日々。
ただの赤ん坊の誕生日が平凡なもので終わっていくことを願っていた俺にとって、それはあまりにも衝撃的な言葉だった。
「スターチスさん……今、この子……!」
児童相談所の女が震える声で俺の肩を叩き、俺も我に返った。
「いや……気のせいだろ……」
そういって振り返ると、女はビデオカメラを回しながら息を飲んだ。
「あなた……泣いてるわよ?」
「そんなこと……」
疑いつつも自分の目元に指をやる。
人差し指が、温かい涙で濡れていた。
自分の感情が不明すぎて、脳内の回路が混乱していた。濡れた指を力任せに拭い、俺は靴も踵を踏んだままに、部屋を飛び出てしまった。
☆
街を走ると、様々な人とすれ違っていった。
とくに目につくのは、決まって家族連れだ。小さい子供が全力で親に甘え、それを抱きしめる親。父親も母親も、疲れを感じながらも慈愛に満ちた表情でその宝物を優しく抱擁している。
俺にそれをしていい資格はない。
血の繋がりのない俺は、あの赤ん坊を産むまで何も苦労をしていないからだ。
父親のように身を削って金銭面を整えたわけでもなく、母親のように命を削って子供を産んだわけでもない。
美味しい所を奪っただけの、悪役だ。
人間だって生物だ。生物学的に、遺伝子の繋がりというものは強い。絶対的なものがある。それがなくとも、同じ種族という点での繋がりも深い。動物の群れでも、親が何かの原因で死んだ場合、同じ群れの種が残された子供を自分の子供のように育てると言った事例も多数見受けられているのだ。
だが、俺は人間ではない。
アンドロイドは如何に人間と同じレベルでの知能や常識、姿を取り入れているといっても人間になれたわけでは無い。
『人間に近い』という言葉は、『あくまでも人間以外の物体だ』という言葉の裏返しに過ぎない。
どこまで人間ごっこを続けていこうとも、俺と赤ん坊が親子になることなんてありゃしないのだ。
……だから、俺が感じた気持ちは。
「俺は……返事をしても良いのだろうか……」
胸の中に響き渡った温かい感情の波は、俺のものでは……。
☆
どこまで走ったか、もう覚えていない。
気が付いたら、誰もいない公園の真ん中にいた。
いつも赤ん坊を連れて、他の親子を眺めている公園だ。泥まみれになった子供たちを、赤ん坊は目を輝かせながら見つめていた。何も言わず、ただじっと。
俺の服を強く握りながら。
誰もいない公園は、鳥肌が立つほどに静かだった。
まるで世界に自分以外の誰もいなくなったかのような静けさに、心のどこかで安堵している自分がいた。
ここまで静かなのは、いつぶりだろうか。
考えもみたが、製造されてすぐに赤ん坊と暮らし始めた俺は、静かな日常なんて暮らしたことはなかったのだ。あれだけ憧れたこともあった、赤ん坊がいない生活。
それを想像して、息が浅くなる。
この気持ちは、責任感なのか。いや、責任感でなければならない。
「スターチス……さん……!」
公園の入り口から、児童相談所の女の声がした。
日頃の運動不足がたたっているのか、せっかくのメイクを汗で崩しながら、赤ん坊を抱いて俺を追いかけてきたようだ。女の様子を心配しながら、赤ん坊は俺に小さな手を振ってみせる。
「どうして、逃げるの?」
女が公園に入ろうとする。
「来ないでくれ!」
それを、俺は制した。驚いた女が、身を縮こませて立ち止まる。
「入ってこないでくれ……」
「どうして?」
「俺は……近づきすぎたんだ……」
女と赤ん坊に背を向けて、俺は蹲った。
今まで赤ん坊を抱きしめてきた自分の腕で、何もない自分を抱きしめる。
「俺は、親でも何でもない。ただ責任を果たしていただけの存在なんだ。一定量の愛情を感じてはいけない。俺が感じていい領域ではないんだ」
「そんなこと……」
女が言い淀んだ。
初めの頃、女は誰よりも俺の育児能力に対して批判的だった。
どうにか俺から赤ん坊を取り上げようと躍起になっていたことだろう。
そんな女が、俺をどうにか慰めようと言葉を紡いでいく。
「あなたの努力は見てきたわ。十分じゃない」
俺は返事もしなかった。
俺は、怖いんだ。
初めて命の凄まじさを感じたのが、赤ん坊の母親の死だった。命という、普段からどこにでもありふれているはずの存在が放つ光の強さに、俺は恐怖した。一晩中、母親の苦痛な叫びと信念を持った雄たけびを聞きながら、耳を塞いでいた。
あの迫力が命。あの気迫こそが、親だ。
あんな存在に、俺はなれない。そんな俺が、赤ん坊を守っていけるわけがない。
なりたいと夢見てしまう自分が嫌だった。機械の分際で何を考えているんだと戒めた。
「スターチスさん!」
「何を言われても気持ちは変わらない。ほっといてくれ!」
「赤ちゃんが!」
その声に、俺は反射的に振り返ってしまった。
さっきまで静かに女に抱かれていた赤ん坊が、突然暴れ出したのだ。
落とすわけにもいかないので、仕方なく地面に降ろすと、そのまま女の手を振り払う。
そして、おぼつかない足で、公園に踏み入った。
今まで、何かに捕まっていないと立てなかった赤ん坊が、何もない公園の真ん中へと、一歩一歩ふらつきながら俺の方へと歩いてくるのだ。
そして、数歩歩いて、転んだ。
それでも泣かずに、砂にまみれながら再び立ち上がって歩き出すのだ。
大人の足だと数十歩の距離だが、赤ん坊からしてみれば結構な距離があるだろうに、泣きもせずに俺をまっすぐ見つけてくる。そして再び転んで、涙を浮かべながら立ち上がって来る。
「馬鹿やろう……怪我するだろうが……!」
俺も膝をつき、赤ん坊に何度も怒鳴りつけた。
それでも、歩みを止めようとしなかった。
「パ……パぁ……」
そして、とうとう赤ん坊は俺の膝に手を突いたのだ。
俺はもう堪らなくなり、赤ん坊を抱きしめた。
少しだけ冷たくなった頬をお互いに摺り寄せ、砂利まみれの身体を寄せ合う。俺の腕の中で、赤ん坊はしっかりとしがみ付いた。
そして、俺の胸に顔を押し付けながら、くぐもった声で泣き喚くのだった。
「パパぁ……パパぁぁぁぁ!」
何も声をかけてやれない。
親になってはいけないという気持ちが、赤ん坊の泣き声を聞く度に瓦解していき、胸に滲んでいく涙の温度が融解し、俺の涙となって零れていく。
お前は俺の事を、パパと呼ぶか。
パパと、呼んでくれるのか。
この一年、俺はお前に何を与えられたのだろう。
与えてもらってばかりだった日々を思い、俺は赤ん坊の耳にそっと口を寄せた。
「ありがとう……ヨーク」
ずっと考えていて、胸に秘めていた言葉が、自然と溢れてきた。
「ヨーク……これが、お前の名前だ」
強く抱きしめ、何度も何度も、そう呼んだ。
「産まれてきてくれて、ありがとう……ヨーク」
二人で公園の真ん中で、みっともないくらい泣き散らした、ヨークの誕生日。
俺は初めてのプレゼントとして、名前をあげた。
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