『僕は君のことをそう呼ぶよ』

 料理が作り終わると、女と赤ん坊との三人で昼前の公園へと向かうことになった。


 まだ赤ん坊がパジャマのままなので、いつも着ている服を箪笥から用意しようとすると、女はそれを制して、自分が持ってきたレジ袋の中身を漁り出した。

 そこから取り出したのは、緑色の怪獣を模した可愛らしい子供用の服だった。


「これ、誕生日プレゼントに買ったの!」


 女は喜々として赤ん坊を着替えさせている。

 赤ん坊はいつもと違う着心地に困惑しながらも、とくに抵抗なく着せられていった。


 そして、若干の不満顔の末に、怪獣が吠える。


「あうぅ」

「可愛すぎるんだけど……!」


 女はどこから取り出したのかカメラを構え、赤ん坊をあらゆる角度から撮り始めた。その勢いたるや、さすがの赤ん坊も泣くことすら忘れて唖然としていた。


「おい、それくらいにしないか?」

「ちょっと黙ってて。まだ服は沢山買ってあるから」

「公園はどうする……」

「撮影会が終わってからね」

「…………」


 レジ袋からいくつも新しい服が取り出されるが、中々袋がしぼむ様子が無い。


「……せめて、風邪は引かせるなよ」


 目で助けを求める赤ん坊から目を逸らし、撮影会を少し離れた所で眺めることしか出来なかった。


 ☆


 撮影会が終わる頃、俺も赤ん坊も空腹で滅入っていた。さすがに赤ん坊がぐずり出したのを見た女は、後ろ髪を引かれる思いでカメラを直し、昼ご飯の準備を始めた。


「赤ちゃんには、美味しい離乳食を作ってあげたからね~」


 女はとろとろのお粥のようなものを小さな器によそった。白濁した粥の中に、細かくオレンジ色や緑色が混ざっている。ここまで細かくすれば、こいつでも野菜が食べられるのか。


「俺には何を作ってくれたんだ?」

「レジ袋にお弁当が入ってるから温めて」

「……」


 何か言いたいわけでは無いが、もやもやしたものを胸に抱えながら、電子レンジの電源を押した。


「あなたのその不満気な顔、さっきの赤ちゃんにそっくりね」

「不満気だと気付いてたなら、撮影会やめてやれよ」

「良いじゃない。どうせ、あなた写真とか撮らないでしょ」

「アンドロイドには必要ないからな」

「あなたのためじゃなくて、大きくなったこの子のための写真よ」


 女は離乳食に息を吹きかけて冷ましながら続けた。


「あなたを愛していますっていう証になるんだから」

「口で伝えればいいだろ」

「伝えないじゃん」

「……まぁ」


 返す言葉もない。電子レンジが解凍を終えるまで、女の冷ややかな目が居た堪れなかった。


「現像したら、あげるから」

「……助かる」


 明日はアルバムでも買っておくか。



 離乳食を、赤ん坊は食べようとしなかった。


 女が小さなスプーンで口元に持っていくも、頑なに口を開けようとしない。それどころか、俺が食べているハンバーグ弁当の方が気になるらしく、テーブルを乗り越えてでも俺の方へ来ようともがいていた。


「おかしいわね……赤ちゃんが好きな味にしてるはずなんだけど……?」

「味の好みなんてそれぞれだからな」


 安っぽいハンバーグに負けたのが悔しいのか、口を尖らせながら離乳食をスプーンで混ぜる。


「でも、野菜も取らないと体に悪いわ」

「栄養は考えて与えてるから問題ない」

「それはミルクでの代用でしょ? 噛んで食べることに意味があるんだから」

「腹に入れば一緒だろ」

「じゃあ、あなたのハンバーグをミキサーにかけても良いのね?」


 ハンバーグに危害を加えられる前に、少し大きかったが残りを一口で頬張った。

 なんとか飲み込み、お茶で流し込む。赤ん坊は今も俺に手を伸ばそうとしている。


「ったく、我慢して食ってみろ。美味しいらしいぞ」


 俺は席を立ち、赤ん坊の隣に膝をついた。

 女から器とスプーンを受け取り、改めて赤ん坊の口元に近づけていく。


 いっちょ前に、唇についたお粥を舌で押し出してまで抵抗してくる。慣れない感触が気に食わないのか?


「安心しろ。な?」


 スプーンで掬ったおかゆを一口、俺が食べた。

 大人の舌には、当然合わない。味も薄いし、食感もべちょべちょ。舌にまとわりつく感覚が、お世辞にも良いとは言えなかった。

 だが、赤ん坊には良いもの。食わず嫌いは勿体ない。


「お前も食べるだろ?」


 俺がお粥を噛む様を、穴が空くほど見つめてくる。だらしなく口が空き、涎が溢れてきていた。

 口元を拭いてやってから、またスプーンでお粥を掬う。


 唇に近づけた。


「…………あうぃ」


 何かを確かめるように、赤ん坊が言った。

 それに笑って答えてやると、赤ん坊は少し迷ってから舌先を改めてお粥に付けた。


 そして、スプーンを咥えてくれた。

 初めは眉間に皺を寄せながら味わっていたが、目に見て分かるほど瞳が輝き、鼻息を荒げながら俺を見つめてくる。


「あい!」


 もっと寄越せ。そう言っているのだ。

 なんとも現金な奴よ。


 鼻で笑いながら、俺は次の一口を用意する。

 今度は、自分から顔を持ってきてそれを食べた。小さな口が一生懸命に動いて、それを噛みしめていく。


「美味いらしいな」


 女も安心したように頷く。


「やっぱり敵わないわね」

「ホントにな。赤ん坊は我儘で仕方ない」


 そういうことじゃないんだけどね、と女は呟いて自分の分の総菜スパゲッティをフォークで巻き取る。


「あっあい!」


 もう飲み込んだのか、また赤ん坊が催促してきた。


「あい……あいあぉ!」


 ん? なんか言ったか?

 俺が首を傾げていると、女は目を丸くして俺の肩を叩いてきた。


「今『ありがとう』って言ったわよ!!」

「言ったか?」


 たしかに言われてみれば、そんな風に聞こえなくもない。

 特段、教え込んだわけではないが、公園での会話や絵本、テレビの声で学んだのだろうか。


「お前、ありがとうって言ったのか?」

「あいあぉ」


 また言った。意味は分かって言ってるのか?


「あ・り・が・と・う」


 伝わるか分からないが、聞き取りやすいように言って頭を撫でる。

 すると、これまでに無いほどの満面の笑みを浮かべて跳ね出した。全身がその喜びを表現していた。


「そりゃ嬉しいのよ! だって、初めて自分の言葉が相手に伝わったんだから」


 女はいつの間にか、今度はビデオカメラを回していた。手際が凄い。


「ほら、もう一回言ってちょうだい!」


 女がその決定的瞬間を待ち望むが、当の本人は三口目のお粥をご堪能中だった。


「あぁ……これはこれで撮っておきたい……」


 女がビデオカメラを回し続ける。子供がいる家庭って、どこもこんな感じなのだろうか。


 赤ん坊は、しっかりと食べ方を会得したようで、良く噛んでから飲み込んだ。これも成長か。


「あぅ」


 赤ん坊が、俺に声をかけた。


「どうした? もう一口か? いいぞ、まだ沢山あるからな」

「あ……ぷぁ……」


 スプーンでお粥を掬い、冷ましてやる。


「ぷぁ……ぱぁぱ」


 心臓が飛び跳ねた。

 一瞬で喉の奥が冷たくなり、瞳孔が開く。


 突然のことに、女の顔を見た。女も同じ様子で、俺と赤ん坊を見比べていた。


「今……パパって……」


 頭が真っ白になって、何が何だか分からなくなる。

 ビデオカメラだけが、この状況をしっかりと録画してくれていた。

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