『地球が一周する』

 カレンダーを破いて、次の月がやってきた。

 雨が増えてきた季節に、今日はたまたま雲一つない快晴だったため、俺は赤ん坊を連れて散歩に行くことにした。

 最近はベビーカーで出かけることも多かったが、きまぐれで腕に抱いて外へ行くことにした。


 昨晩は弱い雨がひとしきり降っていたため、街路樹はその葉に水滴を付けて、陽の光を纏って輝いていた。


「綺麗なもんだな」

「あう」


 赤ん坊も返事をした。いっちょ前に頷いて、街路樹に手を伸ばそうと必死に体を乗り出した。


「危ないからダメだ」


 しっかりと抱き直すと、赤ん坊は嫌そうに俺の顔をグイッと押して離れようとする。たかが赤ん坊の力なんて非力なものだ。少し力を加えると、赤ん坊は為すすべなく抱き寄せられてしまう。


「あうあ」


 不満が混じった声だったが、抵抗は無かった。良い子だ。


 近くの公園は、至る所に水たまりがあった。近所の子供たちはそこに長靴で飛び込み、全身を泥だらけにしている。あれを洗濯する親の苦労を考えると、同情してしまう。そのまま洗濯機に入れても砂が多すぎて故障の原因になる。中々洗い物が乾かないこの季節に大変な手間が増えることなのだろう。


「その点、お前はまだ外で汚れたりしないから良いよな」

「あうあう」


 頭を撫でると、目を細めて頭を俺の手に摺り寄せてくる。こいつは、文句も言われるが撫でられることが基本的に好きらしい。撫でられている時、表情が綻ぶというわけでもないのだが、毎回嬉しそうに腕を振り回している。ペチペチと俺の腕を叩きながら、俺が手を離すまで頭を押し付けてくるのだった。


 明日は雨が降る。天気予報がそう言っていた。

 そして、その雨が止んだら、次の季節が来るらしい。


 つい最近までこたつに入って震えていたと思っていたのに、赤ん坊と一緒にいると本当に時間が瞬きのように一瞬で通り過ぎていくようだ。


「一年、経つな……」


 生まれたばかりの赤ん坊には、これまで初めての事ばかりだったろう。

 初めてのご飯、初めてのトイレ、初めての冬、初めての外、初めての年末、初めての年始、初めてのこたつ、初めての春。

 そして、初めての梅雨。


 この一年を、赤ん坊はどのように感じているのだろうか。

 どうせ覚えていないだろう感動は、この子の心に残っていくのだろうか。

 残らないだろうな。


 そして、初めて赤ん坊にとって、初めてではない日が訪れようとしていた。

 来週、こいつが生まれて一年になる。

 誕生日が、来る。


 ☆


 家に帰ると、赤ん坊の手を洗ってあげてからカーペットを敷いた部屋に降ろした。

 赤ん坊はそれを待ってましたと言わんばかりに、俺から離れ、おぼつかない足で壁に捕まって立ち上がった。


 そして、いつも決め顔を俺に向けてくるのだ。


「凄いぞ」

「あう!」


 赤ん坊が調子に乗って壁から手を離すと、達磨の玩具みたいにコロンと転がってしまった。最初は転がるたびに、まるで俺がしたかのように泣いていたものだが、今は転がってもニコニコしている。転び方が上手くなったのだ。


 まだ歩けないはずなのに、毎日壁に手をついて立ち上がっては、俺が凄いと言うまで大きな声で呼んでくる。出来ることが増えて、本人も楽しいのだろう。まったく、夜泣きをしなくなっても俺は振り回されるのだ。


「お前はまだ赤ん坊なんだから、無理しなくても良いんだぞ」

「あうあう!」


 転んだ赤ん坊を抱き寄せると、また何か必死に訴えかけてくる。


「はいはい。悔しかったら何とか言ってみろ」

「あうあうあうあう」

「あうあうじゃ、何が言いたいか分からないだろうが」


 頬を指で優しく挟みながら、ポケットに用意していた子供用のクッキーを取り出して、半分に折って赤ん坊の口元に持って行った。

 赤ん坊はそれを頬張り、真顔でもぐもぐと噛みしめた。


「ちゃんとお菓子頂戴って言えるようになろうな」

「あい」

「お、今のは聞こえたぞ。『はい』って言ったろ」


 ご褒美に、もう半分のクッキーもあげた。

 今度も口元に持って行ったが、今度はそれを手で受け取った。

 そして、不格好ながら半分に割ると、半分を俺の口に押し付けてきた。


「……」


 初めての事だったため、思考が停止した。

 少し迷ってから、俺はそれを食べた。唇に赤ん坊の指先が触れた。体温の高い指は、ミルクのような甘い香りがする。


「あい!」


 頬張る俺を見て、赤ん坊は嬉しそうに笑った。そして、俺と一緒にクッキーを頬張り、口の端からポロポロと欠片を零していた。


「おいおい、零したらダメだろ……?」


 赤ん坊の口を指で拭いながら、俺の心で騒ぐ感情を抑え込む。


 赤ん坊が、俺にお菓子をくれた。

 たったそれだけの事なのに、どうして俺はこんなに嬉しいのだろう。三百日以上も苦しめられてきたはずなのに、たった一回の行動で全てが報われたような気がした。

 嬉しいだなんて、安い表現ではしきれない高揚感が胸の中を飽和していくのを、顔に出さないようにするので精一杯だったのだ。


「俺は……」


 自分に言い聞かせる。

 俺は親ではない。他人だ。俺がやっているのは、子育てではなく保護だ。


 俺が愛情を感じてしまうのは、本当の親に申し訳が無いではないか。


 気持ちが大きくなって息苦しくなる。

 赤ん坊の顔を見れなくなって、顔をそむけた。


 そむけた先に、両親の仏壇が目に入った。

 遺影に映る二人は、俺達を見守るように微笑んでいるだけで何も言ってくれない。


 外では、赤ん坊の声をかき消すかのように、雨が強く、降り始めるのだった。

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