『腕の中のぬくもりは元気に動く』
毎日が慌ただしかった日々は、振り返ってみれば手が届くほどに短いものだったように思えた。
気の抜けない日々を暮らし、いつの間にか児童相談所の女の家に赤ん坊を連れて遊びに行くほどの関係になっていた。もし赤ん坊の両親が生きていれば、このようにして祖父母の家に行ったりもしたのだろうか。
そう考えて、一人で笑った。
いつから俺は、この他人を家族のように思い始めたのだろう。血も繋がっていない、そもそも俺から赤ん坊を引き離そうとしていた女だ。警戒は絶対に解いてはいけない。
そんな考えを持ちながら行くのだが、女の家のこたつに足を入れるとそんな気持ちは氷のように溶かされてしまうのだ。
「もうそろそろ、こたつを片付けないといけないね」
女が言った。俺は何も言わなかったが、女は俺の顔を見て吹き出して笑いだす。
「どうしたんだ」
「いやね、あなたが悲しそうな顔をしたから。そんなにこたつが好きになったんだなって思ってね」
そこまで顔に出ていたのか。
少し気まずくなって顔を逸らすと、赤ん坊が俺の近くを這いながら、俺の元へ近づいてきた。
そして、俺の身体をよじ登るように立ち上がりかけて、ころんと転がってしまう。頭を打たないように手を添えて、そのまま抱き上げると、今度は女の方が驚いた表情を浮かべていた。
「お前も凄い顔をしているぞ」
「いや、そりゃ驚くわよ……」
からかってやると、女は表情を変えずに赤ん坊を指さす。
「今、立ちかけたわよね?」
「いや、俺によじ登ろうとしただけだろ」
「赤ちゃんにとっては一大イベントなのよ!?」
軽く怒られた。俺に抱かれている赤ん坊も、きょとんとしていた。
「あう~あ」
赤ん坊も、何か言いたいのだろう。喃語を必死に使って女に話しかけていた。短い腕をめいっぱい伸ばして、女の鼻を摘まんでいる。
「あ~ごめんね。大きな声で驚いちゃったよね」
女は赤ん坊の頬を指で突きながら、弛緩した表情で微笑んだ。女は、赤ん坊には敵わないようだ。
だらしない表情の女は、それでも俺には少し強い目つきで釘を刺してくる。
「小言は言わないけど、この子が歩くってことがどれほど大きなことは分かってる? 行動範囲が遥かに広くなって、この子の世界が見違えるってことなのよ?」
「世界が広がる、ねぇ」
女に言われたことを、適当に反復した。
世界の広さなんて、俺ですら理解できない。知識としては知っているし、地球儀でその仕組みも心得ている。
だが、自分が関われる世界の広さはどれほどなのだろうか。
俺は自由だし、好きなところへ行けるはずなのに、赤ん坊に縛られている。きっと稀に見る不自由な生き方をしていることだろう。種を残すために、殆どの人間はこのような苦労をしているのだから感心せざるを得ない。
人間は凄い。
ならば、この赤ん坊も俺の想像を遥かに凌駕するような人物になっていくのだろうか。
今、赤ん坊は俺の腕の中で無心で指をしゃぶっている。
赤ん坊が何を考えているのか分からないまま、一年が経とうとしている。
少しずつだが、泣いている理由がご飯なのかオムツなのかが分かり始めていたものの、正当率は三分の一以下。
そして最近、赤ん坊は喃語をマスターし始めた。絵本を読んだりテレビを見せたりしていると、絵を指さして「あ~う~」と言って俺を見るようになったのだ。言葉の奥に何か伝えたいものがあるのだろうが、いくらアンドロイドといえど、喃語は検索しても答えが見つからない。
適当に頷いて笑いかけると、赤ん坊は満足そうに微笑んで俺の胸に顔を押し付けてくる。もし、俺が適当に反応していると知ったら、赤ん坊は悲しむのだろうか。
毎日、騙しているような気がして、最近は疲れよりも悩みが増えた気がした。
「あ~う~ぁ」
赤ん坊がまた何か言った。
「大丈夫だよ。俺は元気だ」
優しく話しかけると、赤ん坊は笑った。呑気な奴だ。
でも、それだけで少し心が温かくなった。
こいつは、もう近いうちに歩く。
俺の支えが要らなくなるのも遠くない。
いずれ大人になった時、俺は不要になるだろう。俺より立派な男になるに違いない。まだ分からないが、こいつは妙に愛嬌があるから、将来はモテて安泰だろう。
なんてことを女に話すと、女は嬉しそうに笑っていた。
「親バカね、あなた」
何を言っているんだ、と俺は鼻で笑った。
違うとは、言わなかった。
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