『代理できない領域』

 赤ん坊の名前を聞かれた俺は、ついぞ答えることが出来なかった。

 児童相談所の女はより怪訝な顔をした。


「決まってないのですか?」


 俺は黙って頷いた。


「出生届は出している……だが、こいつは親から名前を貰う前に独りになったから」

「今、この子の親はあなたでしょう?」


 女が俺に言った。俺はこの赤ん坊の親だと。

 

 なら、俺があの日に見た、命を懸けて子供を産んだ母親と俺は同じ立場だとでもいうのだろうか。

 病弱な身体を酷使して金を貯め、家族が生きるための貯蓄を作った父親と同じ立場だとでもいうのだろうか。 


 そんなこと、あるはずもない。

 俺はただ、赤ん坊が泣くから抱きしめるだけだ。

 腹が減ってるかも、お腹が痛いのかも、何も分からない。親じゃないから、赤ん坊の気持ちも分からないのだ。


 気持ちを上手く言葉に出来ないまま、俺は首を横に振った。奥歯が割れるほど噛みしめ、酸欠になりかける。


 その様子を見た女は、小さく溜息を吐くだけだった。


「あなたが必死にこの子を育てているのは分かりました。でも、だからと言っていつまでも放置できるほど、我々も悠長にはしていません」


 ちらりと赤ん坊を見た。泣きはらした目を涙で濡らしながら、自分の指をしゃぶっている。


「あなたが大切にしている、この子の命が懸かっているからですよ」


 当の本人は何も分からず、俺をみて微笑んだ。

 なんで笑っているのか、俺には分からなかった。


 ☆


 それからは、頻繁に児童相談所の女が家に来るようになった。

 初めは仕事着であろうスーツ姿だったが、最近は私服で来ることが多い。買い物帰りだと言って、俺と赤ん坊にお菓子や飲み物をもってきてくれる日もあった。


「私は心配なだけです。赤ちゃんも、あなたも」


 仕事としては保護施設に連れていきたい。

 女ははっきりと俺に告げた。


 個人としてはあなたを支えたい。

 女は続けて、そう告げた。


 聞けば、女に子供はいないらしかった。ずっと昔に離婚して、親権が父親に渡ったとか、何とか。離婚の原因は聞かなかった。

 離婚に関しては話し合いの末の結果だから異論はなかったが、親権を奪われた挙句その後一度も会えないことだけは、今でも心残りらしい。

 子供と離ればなれになって二十年が経ったらしい。今年、成人式を終える年だったと教えてくれた。


 初めは俺も警戒をしていたが、季節が変わり、数日後には雪が降るだろうと思う頃には、女が定期的に来てくれるのを待つようになった。

 俺は今も変わらず、赤ん坊の世話と夜泣きに襲われ、自分の生活を反故にしていた。食べるものも、お菓子や買って来た総菜を数口含んでおしまい。そんなことより睡眠時間を優先したかった。


 そんな俺に、女は温かい食べ物を持ってきてくれるようになった。始めに持ってきてくれたのは。甘口のカレーだった。何か月ぶりのまともな食事に、匂いを嗅いだだけで、スパイスの風味に涙が出そうになる。

 実際に食べてみると、思っていたより味が薄く感じて拍子抜けした。だけど、いつの間にか女の料理の味がちゃんとしたものになっていて、その時に初めて美味しいと伝えた。

 それを聞いた女は、ただ一言『良かったね』と笑っていた。


 ☆


 女がうちに来るようになって数か月。

 赤ん坊は立派にハイハイするようになった。ベビーベッドの上だけが彼の世界だった頃とは変わり、もうあんな狭い世界では飽き足りず、目を離せばすぐに家の中を冒険するようになった。

 部屋を綺麗にしなければならない。危ないものを低い位置に置けなくなった。


 この頃になると、もう夜泣きもしなくなってきた。運動量が増えた分、夜の睡眠が深くなっているのかもしれない。原因がどうであれ、俺の睡眠時間が徐々に確立されるようになり、俺も胸を撫でおろすようになった。


 だが、未だに赤ん坊に名前をつけられない。

 女には何度も命名を催促されているが、決心がつかない。


 這いずり回る赤ん坊を我が子のように思い、育てている。だが、やはりどこまで行っても親子ではない。その考えが、命名という一大イベントから目を背けさせてしまう。


 良くないのは、分かっている。

 赤ん坊にとっても、芳しくない。


 毎日俺は、今は亡き両親の遺品を漁り、日記やメモは無いか探している。時間が許す限り、物置の奥底からひっくり返して。

 それでも、将来の息子の名前については、何も書かれいなかった。


『私たちの子供の名前は、何が良いだろう』


 そんな文章が書かれた母親の日記だけが、この一年近く探し求めた俺の唯一の成果だ。


『私たちの息子は、親に似て身体が弱いのかもしれない。でも子供とは逞しいものだ。親の心配を一身に背負い、何食わぬ顔で大きくなっていくのだろう。そんな最高に可愛い傍若無人な天使には、なんて名前をつけるべきなのかなんて、見当もつかない』


 生まれる前から、母親は親バカだった。

 生まれる前から、この人はちゃんと、赤ん坊の母親だった。


『名前は微塵も浮かばないけど、きっとこの子の顔を見れば、直感で分かる気がする。経験則でも何でもない、ただの勘だが、そんな気がする。母親としての、直感だ。この子の名前は、その時に呼んであげるんだ』


 日記は、それで終わっていた。

 もし、母親が生きていれば、赤ん坊のことを何と呼んで抱き締めたのだろう。

 赤ん坊は、なんと呼ばれて微笑むのだろう。


 俺には、毎日その顔を見ても、何も浮かんでこない。


 今日も、俺は家族になり切れない赤ん坊を抱きながら、窓の外の夜に目を泳がせていた。近所の家々が灯りを消していく様子を眺めながら、何度目になるか分からない子守歌を歌い、赤ん坊を眠らせた。


 せめて夢の中だけでも、両親に抱かれてくれ。赤ん坊よ。

 そう願って。

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